今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

俺のえぐみと臭みを消していく

今日は割と時間があった方だけど、本を読んだのは多分一時間にも満たないと思う。何をしてたのかと言えば、雑用だったり、あとはインターネットである。

 

 「短歌の世界」を引き続きと、奥村晃作歌集を読んだりしている。

短歌を好き嫌いで区分けすることについて書かれていた。創作家というのは作品を好き嫌いで区分けする作業をへて、自分の作品作りにもそれをあてているというもので、だから好き嫌いを否定することに意味はないようなことが書かれていてなるほどと思った。それを取り去るということは判断基準をなくすことと他ならないのである。しかしその辺のことを否定しないで紐解くというのはある意味勇気でもあると思う。ていうか勇気を与えてもらった感じ。他の人にいう必要はないけど、そう思ってる時点でその気持ちは間違えてはいないのだ。うん。

 

好きな文章というのがある。エッセイもわりと読むし、雑誌に書かれてるコラムなんかもまあ読む。いつまでもずっと読み続けられる文章もあれば、すぐに「もうだめ」ってなることもある。わたしはそういうのを「人柄で選んでる」って言う。あ〜このパターンね、とかあ〜最後は批判に落ち着くパターンね、みたいのが普通のおしゃべりならば雰囲気と流れでごまかしようのあるものが文章になるほどに丸見えになってしまう。文章を書く、表現するというのは自分の感情、思考のでどころを事細かに細分化していくことと他ならないと思う。だから、エッセイのようなものになるとそれが上手く出来てないものってのに自分はすぐ腹いっぱい状態になってくる。なんていうか他人の洗練されていない自己実現をずっと見続けるというのは辛く、「文章を書く」「自己を公表する」それは切実な行為で、何の対価も求めない正直な欲求から来ているべきだと思う。

何故、そんなことをするのかと言えば自分の場合は「知りたいから」が大きいと思う。表すことで知ることができる。アウトプットすることで余計なものが出て来て勝手に繋がったりとかもする。けどそれが、「売れたい」「分からせたい」に変わったとき、何かが変質していくのかもしれないと思う。

変わって欲しくないのだ。わたしは。何故、良いところがなくなっていってしまうのだろう。そういうことを知りもせず、これで良いって笑っているあなたを見て、わたしは悲しいと思ったよ。

切実さはなくなるのだ。年を取れば取るほど、余計なもんが増えるからだろう。

 

なんていうんだろう。私という体の、器官を通して言葉は紡がれていく。身体的な感覚で世界を見て、その反応として出てくる。最初に書いたばっかのやつを推敲しないままでみるとなんていうか「えぐみ」が強いと思うことがある。あちこちに反応してばかりで普通にうるさいと感じるのである。だから推敲するときはわりと離れた場所から見て「それ」を削いでいくかんじだ。うるさい、感じやすい私が確かにいて、それでは伝わりにくいだろうので、ある意味ではあざとく世間になじみやすい形に変えていく。そうしないと後で読んだとき「この女テメエ!」と思ってしまうんである。自分に。

自分が読んでいて、食傷気味になるような文てのはおそらくそういう「えぐみ」が強いものなんだと思う。端的にいえば「若い」。内省がない。気持ちだけでいってる。(おいアマ!!)

 

でも、たとえば?って言われるとあまり思い浮かばない。林真理子のエッセイとかはよく読む。あれはもう普通に面白がらせるために書いちゃってるのですごいなあと思う。いっていいのか分からないが、道化を演じちゃってるのだ。なにかの道を極めるってのはそれなりの覚悟と深い沈みのようなものがなければ、「面白い」まではいかないんだと思う。よのなかは実際フツーのもんで溢れている。