今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

テーマ詠は尊い

テーマに沿って書くのは尊い、と思った。

 

ここにもちょくちょく載せている物語、短歌のような創作を始めたのは二、三年前くらいからだと思う。はじめは、ただ思いつくままに書いていた。人に見せたい思いもあったけれど、ほとんどはめちゃくちゃで自己満足の方が大きかったと思う。そうやっておもむくままに書いていた時期から、最近は「与えられたテーマ」もしくは「人が求めているだろうもの」に焦点を当てて作ることもたまにある。なんかのコンテストに応募するやつはそうである。

まあアクセス数は微々たるものだけど、テーマに沿ってやるのは面白みがあるのだ。それから尊い。それは表現活動という意味だけでなく、人間らしいことだと思う。「売れたい」「売れた」というけれど、そんまんまの自分を世間が面白がるなんてのはまれに存在するカリスマのような人だけで、実のところは「売れたい」はイコール「人のために」につながっていくのだと思った。抽象的な創作活動だけでなく商品を作るにしてもそうだ。いろんな語句を使って説明するにしても、結局先にあるのは誰かが喜んでいたりびっくりしている顔だったりする。作る時は単純に好きで、面白くてやっていると思う。でもこれを見て、誰がどう思うのかを考えながら、社会の中の自分になっていろんな視点でつくるのと、ただ発散、欲求でやるということは微妙に違っている。なんかその「テーマに合わせて自分を変えていく」面白さっていうのが今の、短歌に繋がっているのもあると思う。

ただテキトーにやっていたころを経て「テーマ詠」に挑戦してみる。そうしたら不安の先にうまく出来たことがあったりして、その上それの本意が伝わったとき、わたしはちゃんと平泳ぎ、言われた通り練習して泳げるようになったよーって周りの人に言ってしまいたくなった。そうしてはじめてそれが「仕事」になるのかもしれないと思う。いや、なってないけど。周りを見ていても、テーマ詠みの方がずっといいのに、自分のやりたいことだけ追求している人もいる。わたしは自分というもんがあまりないと思っている人間だけれど、「染まりたくない」と思うこともなかなか生き難い面もあるのだなあと三十半ばで思う。頑固、って良く描かれがちだけどさ。気付きっていうのはそういう性質のもので、簡単な事だけれどどんな機会にめぐまれていても気付かない人は一生気付かないままで朽ちていくのだろう。

 

短歌集について

短歌の本が売れないっていう話を聞いた。まあそうだろう。出す人も売れると多分思ってないで出しているとは思う。でも好きな人からしたら面白いもので、わたしは多分小説だと飽きてしまうからこっちの方が合ってるんだろうなと思う。なんていうか即効性がある。

短歌も、小説も、バンバン売りたいのだったら広告を頻繁にして作者をタレント並みに活動させて盛り上げていけばいいのだろう。けど本来なら短歌、ポエムはそういう性質のものじゃないと思う。少なくともわたしの場合はそうだ。「これは、わたしのために言ってるんだな」「なんとなくわかる」「わからないけど好き」というような、なんていうか見えない双方向の意思疎通がないとわざわざお金を出して「買う」までいかない。本は高い。でも、買ったらなかなか嫌いにはなれない。だから気に入った歌集はずっと取っておくし、何べんも読み直すだろう。そういうものを、他人が「短歌の本は売れにくい」と話していてもピンとこない。

わたしは、短歌とほか消費するエンタテイメントものを区別して見ているんだと思った。

 

良いと思った人の歌集を買って読んで、その人の生き方や連作を知る事で得るところがあると岡井隆さんは書いていたけど、多分そうで、短歌集に収録されている歌は生活にも繋がっているものが多いのでその人の人となりとかどんな生き方をしているかを知ることが出来る。小説のように思想だけでなく。だからコマ割りで見る写真集のような側面もあると思う。人によって全然切り取り方は違う。それもあたり前のようなことなんだけれど、それも多分いろいろ知れば面白さに繋がるのだと思う。

 

まずは類語辞典、辞書を買うことからだー。時間はなくてあまり触れられないけど、ずっと短歌のことは頭の片隅にある。それだけで幸せで、「好きなもの」っていうのはそういうものなんだなあと思った。