今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

普通の文章でも喋っている

除雪機の通る夜道が舞台であり見てるこちらは夢でありつつ

 

故障した融雪機怒る父親が当たるはそれを見ていた母親

 

水洗のトイレ汚れを流すため特別余力を必要とする

 

思い込み激しい君はしあわせでその分みんなに愛されている

 

残酷な言葉はたして何だろとおそれて予測変換に任せる

 

千人を並べた時になんて言う私の番でモゴる口もと

 

 

「手書きがいい」という意見をもとに、手元のメモに書き留めるようにし始めた。こんなふうに順序のようなことを書くのは、あとで読み返した時にどれだけ遠い場所から来たのかを確認するためと、あとは同じ境遇の人が読んでくれたらなと思うからだ。手書きなんだけど、してみるといよいよ恥ずかしいと思う。「わたし=短歌=ガンバッテ=やってます」みたいな気持ちになって来る。

アイラブユーという歌詞を見た。わたしもポエムを書くけど、こんな言葉をまだ使えたことがない。人を愛したことがないのかと言ったらどうだろうかよくわからない。とにかくそういう、言葉を飲み下して、自分のものにするためには手順と物事に対する誠実さみたいなものが必要だと思っていて、だから嘘はいけない。人の真似で使うっていうのもよくない。

で、わたしは、手書きで書いてる時その全体のものごとを漠然と表すために「愛」って書こうとしたんだけど手書きというリアルさがあると漢字一文字すらも恥ずかしくて書けなかった。手書きにはこういう作用があるのかと思った。だから、思い込みでは書けないのである。手の前で、現実に醒めてしまうわけだから。

しかし愛ってのはあまりにデカすぎる。それをリアルで口にするなんて狩野英孝50TAになったつもりでないとむり。

すっごく大好きですよっていうとき、愛してるっていう包み込みたさはあまりなくて、懐に潜り込みたくなってるほうだと思う。愛してるってなんなんだろう。感覚的に。

 

昨日、短歌を書いてみたんだけれど知り合いに見せたらわりと褒めてくれた。こういうのは嬉しい。突き詰めれば、ずうっと褒められないのならやらないのかもしれない。楽しさはあるが、けど活動ってのは結局そういうもんである。ずっと公表しないで自己満でいられるのなんて変態である。

書き溜めないやつだから、考えないで作ったやつだけど、わたしとしては自然詠を意識してみたのだった…いや、自然詠というか、自然、情景の語句を入れているだけですね。はい。岡井さんの本では自然詠があまり受け入れられてないのは、現代に自然というものが縮小されつつあるからだと書いてあってそうかもしれないと思った。短歌をやる時ってのはだからその人の視点や思考がそのまんまで出てくる。自然や人の中に存在してるということを忘れてしまって、自分のこと、過去のことしか考えてなかったりするのかもしれない。もろ、あたまのなかの葛藤でしかない。それも、もったいないかと思う。頭を上げて、見えてる景色を書く、と意識を向けるだけでも違って来たりする。(今回は混合ですがやっぱり景色入れた方が良いような気がした。書き留めてあるやつはもっと捻ってサラッとならないようにしている。そっちのが良いのかサラッとのが良いのか分からないが、初期より今はサラッとしてない方が良いように見えるのである。)なんだ。サラッて。

外を見てみればもっと色んなものがあるのかもしれないな。毎日忙しくて、なんか狭いところしか見えない。