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つぶやき、料理、日記など

自分と他人の区別

朝から夕方くらいまでなんとか我慢を重ねて働いていてもよくわからない時にとくに何もないきっかけで爆発して周りの人を困らせてしまうことがある。ああいうときに自分の頭の中身がどうなっているのかわからなくて、「ああ、せっかくここまで良い子でうまくできていたのに」という意識もろともそれが崩れ去っていくもので、後の方は半ばやけくそ気味になっている。とくに気持ちのいいものでもなく。そう考えると自分の意思なんてものもともとなくって、自分もある場所のスピーカーでしかないのかもなあと思ったりする。頭の中に見えているのはなんらかのイメージで、それがどこにつながっていくのかなんてことを私は知らない。生かされていることを時々はつまらないと思う。私が私でしかいられないままに残していったものなんてただの一つもなかったような気にさせられる。もしもあるんだとしたら人との繋がりだろうか。
今日、アメトークの昔のDVDを借りて見てたんだけどそこにあったガラケー芸人ってやつ、見た記憶があるんだけどまた借りてしまった。なんていうか自分はずぶなおじさんが好きなようでサンドウィッチマンのやりとりを見たかったみたいだ。サバンナの高橋はトークも上手いんだろうけどなかなか好きになれない。目つきが私を不安にさせるのである。この人怒ると怖いなあって思う。怒っても怖くないっていうのはああ、怒ってるなあ、けど本当に壊れそうだから怒ってるんじゃないなあっていう感覚がある。まあ一個人の印象なので誰も気にしないでください。

それ見ていて思ったんだけどしかし「ガラケーガラパゴス」って言い方はすごいなと思った。ガラケーに対して失礼極まるし、その言い方が皮肉から来たにしても元は最新の文化だったはずなのにね。携帯電話の進化はすごい。わたしの中学生の頃はポケベルだったのに、、、。
スマホにしても今やあって当然でネットニュースやなんかのSNSサイトをちょっとしたすきま時間に見たりするのももうあたりまえになっている。昔はマンガ、新聞、テレビ、本がおもな情報源だったんだよな。そう考えるとスマホはあまりにも自分たちに近い存在なのかもしれないなあと思う。なんていうか道具的に。親指とつながっているその世界・・・それは鍵を開けなくてもいいしドアを開けなくてもいいぶん、新聞より本より何よりもどうしても近いように思えてしまって、そのわりに人のずっと奥の方に簡単にリンクしてしまえるのだ。他人の思考がそこまで近い距離で常に自分の傍らにあるということに人間は支障をきたすんだろうなと思うことが最近はあって、なぜかと言うと無記名のそれを見ているうちに、その気分、感情、意見が誰のものなのかわからなくなってくるからだった。何故なんだろう。人っていうのは他人の感情の発散をいつまでも黙って聞かされ続けられる器なのではなくって、いつかそれに対して線引きが必要になってくるみたいだ。そうでないと引っ張られ反発がおき中身ががごしゃごしゃしてくる。自分はそうなんだけどなかなか感情の発散てのが上手くないみたいである。それの意味ってなんなの?ただ一人だけ気持ちよくなりたいってなんなの?その天秤が。けどそれに当たってある最中なんかもー本当胸のむかつきやらイライラやらが酷くなって来たのを、言葉に表して「ここからここまでが自分、その先はあなた」と分けることでやっとの事で正常を保てるようになるなあと思った。
もしかするとそういうのも人間の器っていうものがあったりして、やっぱ自分はすぐ悪くなりすぎるように思う。「いいよ」って言えないもんなあ。すぐには。理由が必要だし少なくとも他人に説明できるようなものがないとなんとなく飲み込みづらく気持ち悪い。
という感じでスマホを傍らに抱えるようになった人類はやたらと騒がしくなるのかなあなんて思ったりした。次から次へと入ってくるものをかき分けてかなきゃならない。情報という形ならばいい。当たりやすいのは人の感情である。

 

こんなこと考えているんだよ、そんなことを言葉にし、伝えたり、書き綴るのは決して悪いことじゃないと思う。そうしなければ正常ではいられないからである。