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日記

日記を読み返すごとにばかばかしいなと思ってしまい、今ではどんな気分でそれを書いていたのかもよく分からない。なんていうか普通のブログを書いてないかもしれない。けど何を書けばいいのか分からない。

常日頃仕事のことばっかり考えてしまってそれが間違えていることのような気がしている。自分には生活、趣味、他の場所もあるはずなので何話してても結局仕事の思考回路に陥っていくのは間違えていることのような気がする。

 

 

〜今日思ったこと

人の上に立つために「怖い」っていうことが重要なのかなと、恐怖政治を行おうとする元恋人を見ていて思う。

包容力って何?それは「反発する」でないことはもちろんのこともしかすると「強く受け止める」ではなく「受け流す」ということなのかもしれない。そう考えるともはや早く歳をとりたいと願うしかない。

・小学校入りたての頃に友達を作るためには「友達になろう」って声をかけないとならないと思いこんでいたっていう、そういう感覚を思い出す。友達になるためにはあと一歩のラインを踏み込まなければならないんだった。勝手に心配したり、生活に干渉してみたり、やけに感動してみたり。そういうやりとりを自然にできる友達としていて思い出した。そーかだからこの子はすぐに友達ができるのか。自分にはそういうやりとりが上手くできない。親しい相手にさえも鎧みたいなものがあるんだなあと実感した。化石だ。化石。

・昨日と同様の攻め方で今日も行くのは「効果があるからだ」「効果がないからだ」ではなく「自分がやりたいから」だったとしたら単なる馬鹿だ。わたしはばかです。いつでも自分は他人から馬鹿に見られてるんだなと思わなくては

梅雨っていうのを経験したことがないからそれに対して「本当にあるの?」くらいの認識くらいしかないんだと思う。わたしは雪に焦がれているかもしれない架空の人達のように、そういうものが性格形成とかにも影響を及ぼすのかもしれないなあ、って感じで梅雨を思ったりしてしまうことがある。異国の見えない暗号みたい。梅雨のある土地に住んでる人はきっと物事を画一化したいくらいに何事に対してもきびしくて、はみ出てる人を許さなかったりするんだろうなと考えたりもしたりして、けど、そんなのは自分からした社会に対する恐れそのまんまの印象でしかなく結局梅雨に対するイメージなんてものろくに持ち合わせていないのだった。よく分からないものが分かった途端に「こんなもんか」となってしまう落差。あの頃はいろんなものに対して幻想があって、だから幻想それ自体が梅雨に対する印象だったのかもしれなくて。

梅雨っていうのは、だいたい六月くらいの季節にだらだらと雨が降ったり止んだりしてジメジメするなあっていうものなんだろうなと想像して居る。同じようなもので三寒四温なんかは毎年、「いま、三寒四温に居る!」みたく思って共感を求め周りの人達に言いふらしたくなってしまうのでもしかするとそれくらい劇的なものなのかもしれない。梅雨入りしました、梅雨が来たぞ〜と言うことで、ただ気持ちが軽くなるのだというようなやり方で、つまりは分かち合うということなのだと思う。梅雨の存在に気づいたちょっとずつの人たちはあるときから声をあげるようになって、地球がうまれて◯ン年目くらい暦ができてルーティンが出来上がってからある時期になるといつも「なんか調子が悪い」と思うようになって、そう考えているのは自分一人じゃなかったんだっていうことがわかって、それに名前を付けようということになり、共有することで、皆で少しずつ梅雨っていうものの煩わしさ、苦しみを分かち合うことができるようになったのだった。梅雨っていうものの今も昔もその存在は漠然としていて、人たちは体感的に梅雨っていうものがあるのかどうかよくわかってなかったりする。こういう在り方は途切れなく存在している私たちの在り方と比較してみても実は正しいのだなんてふうにも思うから、だからそういうことに「なんとなく」みたいな「かも」「たぶん」なんてふうに付けたくなってしまうことをも恐れないでいて下さいと考えてみたりする。公式に発表されるのを待たれるようになってしまった梅雨、ただ煩わしいとだけ言われるようになってゆく梅雨、そういうものを見ているときに切ないとたまに思う。いや、思ってない。「思った方がいいのかな」くらいに今は毎日が忙しいのだった。

好きな人とそうでもない人との違いについて考える。好きな人っていうのはうしろ姿を見つけただけで駆け寄りたくなってしまうものだったような気がする。そこにしか見えない景色に近寄りたいと思わせるのが何なのか自分でもよくわかっていない。好きな人が自分を好きでないということは起こり得ることで、それ以前に自分よりもかっこ良い人、可愛い人は世の中に数限りなくいて、そういう人を見るたびに親しみ、反発、それから「いいなあ」っていう気持ちがやみくもに湧き上がってくる自分も少なからずいるっていうことを否定出来ないのだった。わたしはまだ若い。こういう世の中を見上げた時に闇雲に(ほとんど関係ないくせに)いいなあって思う気持ちは突き詰めて問答してゆけばもしかすると嫉妬なのかもしれなくて、そこに埋まってるものが他人のもので人ごとだった時に感じていたものだとかを思い起こすとウワッてなってしまう。自分の存在を超えてあるものに相対したときの人間の振る舞いってのはまるでその人自身なんだろうか。けどそれに対する気持ちは悪にも善にもなり得るだろうし、自分にはないんだとは言えないような気がしていて、だからそれに向き合わないうちから茶化したり、さっさと転嫁してみたりするのはちゃんと生きていないことのような気がする。だからわたしは誰にも自分の気持ちを言いたくない。

結局まとまらない。好きっていうのは思わず駆け寄りたくなってしまう気持ちだったと思った。よく知っている人が夢に出てきたときに目が覚めてもしばらく懐かしいと思っているときの気持ちってなんていうんだろう。あのときは双方向性みたいなものがちゃんとあって互いが互いを見ていたし、私はいつもちゃんと声が返ってくるのを待っていたのだった。そういうこと全て、懐かしくてずっと浸っていたくなってしまう。まなざし、声、雰囲気みたいなものがわたしに続いてたそのままで誰か他の人に注がれているということにけっこうショックを受けてしまいそうだ。命って限りなく欲深いと思う。

 

椎名林檎の歌で「将来僧になって結婚してほしい」っていう歌詞があるけどあれはよくわかる。僧になんてなって欲しくないし好きになる人がそんな無欲で世俗に興味のない人であるわけが無いんだけど、突き詰めればいつか欲しいものはそういう種類の愛情なんだと思う。そういうことに対してなかなか説明がつかなくって、だからポエムにしてみようかと思ったのに、糞詰まりみたいになってあんまりうまくいかなかった。