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ラブイズオンライン

つぶやき、料理、日記など

綿矢りさ「勝手にふるえてろ」

今日綿矢りさの「勝手にふるえてろ」を読んだ。

他人の恋愛についての話は面白い。他の女子と自分を比べてなやみ、友達に相談しながら、妄想しつつも、それはほとんど偏愛で自分勝手に行われる。女の子はこんなふうに人を好きになるんだと思った。綿矢りささんがこんなふうにポップでユニークな視点で書く人だなんて知らなくて、ブックオフで立ち読みした時から読んでいる間ずっとドキドキしていた。

あなたが私を好きでなくなったらわたしはきっとあなたを愛するようになる、「冷たい大理石の上にねそべり、それが体温で少しずつあたたまっていくように」。主人公は自分の思いに対しては純粋で、時に単純にも見えるのに、かたや物事や周りの人間に対してはひとつ冷めた視点で眺めている。こういう「何もかも分かってるのよ、本当は」みたいなのが、多くの女性にはあるんじゃないだろうか。幸せになる方法も、お互いのどうしようもなさも痛いくらいに分かっているのにそれでもお互いが平和に、幸せに暮らせる方法を取れない。男だったらそれを「こういうものだ」と簡単に定義してしまうことができるのだろう。てもそれをしないで、俯瞰しながらも切り離せない感情とのせめぎあい、そのことを「大理石と体温」で表すような感覚にしびれてしまう。それから胸に付箋を付けたのを見た「二」が主人公を好きになった話とかも好きで、人間の営みなんてそんなものだったりするなと思う。きっかけなんて、思い出せないくらいかすかで、忘れられなくなったのはあの時「胸に付箋を付けて話してたから」なんて、人間て本当に不確かで脆くて素敵だと思う。

この物語が酷い方向へ触れず面白くなっているのは主人公に賢さがあるからなんだと思った。ちょっとだけ冷めていて、「笑っちゃうぜ」みたいのが無いと、人間はどうしても苦しくなる。物事に、他人に、それから欲求に対して支配されるんでなく、支配する側でいつも居なきゃっていう気持ちは大事だ。

 

皆どんな人を好きになるんだろう?

 

読んでてまず思ったのが、皆どんな人を好きになるんだろうっていうことだった。「好み」それはまか不思議で、他人の趣味嗜好を聞いていると他の国の文化を聞いているかのごとくな気持ちに私はなる。それはイチと二の描写がなまなましかったことによると思う。いるいる、こういう人っていう感じ。私だったら好きにならないけど、でもなんだか分かる。二はよく喋る、思い込みが激しくて自分を売り込むのがうまいタイプ。思ってることを120パーセント言って、言った後で周りに考えさせるような人間だ。イチは大人しくて、あまり皆の集まりには参加してこないけど、でも皆から好かれているような男の子。主人公はイチにちょっかいを出すのに加わるわけでもなく、ただ誰からもバレないようにずっと観察している。「私には分かってるんだよ、あなたの本当に考えていること」みたいなのって一体なんなんだろうか。女って恐ろしいことにそういう思い込みがあるんですよね。そしてほぼそれだけでイチへの愛は成り立ってしまっているのがすごい。こんなまっすぐな思い込みは十代のものでしかなくって、あの頃の愛されたいのと、悲しい程にありあまるくらいの「愛したい」という欲求を思い出す。第三者からみるとそれはもう怖さしかない。お互いに思い合っているからこそ成り立つそれが、片想いである時は身勝手にしかならないのが恋愛の残酷なところだ。恋愛なんて至近距離で見るほどに「バカみたい」なものだったんだよなあっていうのを思い出す。それほどに主人公の悩みや振る舞いはどこか痛々しくて、それは自分にも他人に伝えると途端にバカみたいになるような思い込みや、勝手さがかつてあったからだと思う。

「わたしはこの人を愛することが出来るんだろうか?」それは浮かれている最中に考えることのない、けれど現実に生きねばならないのなら誰もがいつかぶち当たる問いであると思う。ごまかしに慣れてしまった大人はいろんな言い訳を心得ていて、自分の心の内から生まれる欲求「わたしは死ぬほど愛されたいし、愛したいのだ」なんて言葉をもう、口にすることさえ出来なかったりする。だから主人公の生き方が私には突き刺さるのだ。人を真剣に愛すること、それは生きることと何故か似ていて、だから時に身勝手で、他人が見ると痛々しく感じるものなのかもしれない。