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ラブイズオンライン

つぶやき、料理、日記など

「いい話」って何なの?

いい話、みたいのが昔から苦手である。インターネットをしていたり、テレビを見ているとそこかしこにそういう話が転がっているので自然と目に入ってくるのだけど、そういうのを見るたびに私は身構えてしまう。これは感じ方と、話し手の感受性の問題なのかそれとも人徳の問題なのかは分からないけれど、それでもおそらくその話し手と、私がまったく同じ体験をしたとして、感想はまったく違うものになるのだろうなと思う。私のように根暗で変なところが繊細な人間からすると、そういうのを話している自分を想像出来ないし、話し終えた後の他人の顔を想像しただけでぞっとしてしまう。「よーこちゃん、本当は優しいんだネ!」「よーこちゃん、本当は勇気あるんだネ!」「よーこちゃん、素敵な人たちに囲まれているんだネ!」なんて言われた日にはあなたどんなリアクションをするんですか?「そんなこと全然ないよ」「だったらなんでそんな話ししたんだよ」「エッ……気分」みたいな感じにならないですか?

いろいろな物事に対して、変だなーと思ったり、なんでそうやるのかな、癖かな、決まりなのかな、いや空気なのかもしれないみたいなことの方が気になって、大抵悶々としているのでそれは大抵は「いい話」にはならない。小学生のころスーパーの見学をしに行って、その感想の発表で「天井が剥き出しで汚かった」と言って失笑を買った記憶がある。読書感想文でも読書いっぱいしている子があっという間に書き上げている間、一行も書けていなかった私である。それとはあまり関係ないかもしれないけど、誰かのお葬式の時に自分は泣けるんだろうか、っていうのがある。自分の人生にとって主要な誰か、っていうと家族であるけれども、家族が亡くなった時私は泣けるんだろうか。このことを、私は幼い頃から時々考えていた気がする。たぶん泣かないだろうと思っていた。だからテレビや、祖母のお葬式で泣いている人を見るとどうして泣くんだろうと考えていた。私にとってそれは「奇妙」ですらあった。人が死ぬのが、大切なものが無くなるのが悲しいのは分かる。自分にとって代わりのない、かけがえのないものだからだ。まだ若い方なので周りで人が死んだ経験っていうのがなく、頭をこねくりまわして思い出してみると高校生の頃に他学年の男の子が病気で亡くなったので皆で見送りしたという時があって、その時もステージの上にいる校長先生が本当にドラマでも見てるかのようにおいおい泣いていて、私の周りの人達もざわざわしていた記憶がある。隣のクラスの子は笑っていて、私もつられて笑いそうになってしまったんだけど、後で同じクラスの子がそのことを「ひどいよねー」といってたので、ああ、笑わなくて良かったと思ったのだった。けど今考えてみても、あの時の校長の泣き方は変だったと思う。それほどの関わりがあった訳でもないのに、隣にいる母親よりもずっと泣いていた。なんかそういう周りの様子の変化や、人の振る舞い方の方が気になって、ああ、セレモニーなんだよなあっていう感慨だけはあるけれど、多分その中で必要とされるくらいに涙を流すことはできないと思う。私にとっての「いい話」ってそんなものなのだ。必要とされている場で振舞われる涙にどんな価値があるのだろうか。私が得たまだ誰にも話したくないもの、嬉しかったこと、泣きたくなったこと、そういうのを「みんな」と会った時に自分の話したい事のエントリで一番上には持って来たくない。話したい誰かに、思いがけずに話してしまったくらいで充分である。