今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

連作を作る

テーマ詠としての、顔のこと

 

最近、顔についてよく考える。ちょっと前は何故か耳だった。耳の渦巻きが内臓に似ていると思っていた。

世の中にはいろんな顔があって、短歌として読むときにもその切り取り方はさまざまだと思う。顔にはいったい何が現れているだろうか。そして、見る人はどう思い、自分はどう考えているんだろうか。例えば、年配の人の人生が現れているような顔。母親の苦渋に満ちた表情。幼い子は、楽しそうだったり、思春期にはいかにも不安定そうに不満を抱え込んだ「何者でもない顔」をしていたりする。自分の顔は何も知らん大学生みたいな顔だ、と言われたことがある。そう言われればそうかもしれない。何の苦労も、大病もせず、家庭に恵まれてそだった。わたしは苦労を避けて通るのには長けているし、それに諦めっていうのがめっぽう早い。

 

昔親しい友達がいて、自分の書く似顔絵がことごとくその子に似ているっていうことがあった。意識してないけどそれが不思議で、けと漫画家の絵を見た後でその漫画家本人を見たりするとなんとなく骨格が似ているんですよね。それが面白かった。ていうことは、接する時間が長いものを人は「イコール世界、イコール自分」と捉えるのかもしれない。

年配の人が子どもと接しているときいくらか若く見えたり、犬が家族に囲まれて人間らしいことをしようとしているのとかは見ていてほほえましい。そういうことはあるのだと思う。視界=世界だ。このこと何回も書いたかもしれない。

 

短歌を、考えて直す

短歌を推敲中です。ネットでも書いているし、このブログでも書いていて、けどネット上に排出してる短歌も一応添削はしてくれるらしい。賞への投稿はダメみたいです。あくまで結社の話。

わたしのなんて見ている人が一桁台なので問題はないであろう…けど、やっぱり見てもらうため作ったものをまずは読んでもらうのが礼儀だと思った。

けどこれは良いかも、私らしいかもというのが載せた後だったらそれも合わせて読んでもらいたいというのもある。

 

SNSで短歌を詠むときは、すぐ消えてなくなると思うので挨拶がわりっていう意味でやっている。自分で気に入っていたらあたためておいた方が良いと思った。うたよみんでも気に入ってるのはいくつかあって、しかしあまり練られてないと感じる。推敲修正などすればなんとかなるのかもなと思う。

 

最近は、詠むときもちょっと真似が入っている。意識はしてないんだけど、作ったあとで真似やってることに気付く。

 

連作とは?? 

連作に興味が少しある。さっきまで「短歌の世界」の連作についての章を見ていた。連作というのは別のテーマでもより集めて排出しているものも言うし、ひとつの題材を表そうと試みてるのもあるそうだ。連作を作ろうとするのは読者を意識してのことが多いのかもしれない。今じゃテーマを決めて、それに沿って何首かあげる、みたいのが多いんだろうか。

てことでやってみましたー。連作は、「連作やるか!はあどっこいしょ」と決めてやるものだと思いました。何にしようかなと考えて、さっき書いた友達のを詠んでみようと思った。

 

 

☆連作「女ともだち」

 

別れ際盛り上がる常レンガブロック死んだ黒蟻は狭間にくねる

 

何番の何号地電話何番の君のこしてく友人関係

 

そうだろう「あの時、わたし」を言ったって記憶の私も笑わぬだろう

 

ミクシィはオレンジだったツイッターは青色だったブログは白で

 

もったいぶる欲しがる女背伸びする事など全て教わった きみ

 

髪を切るそれだけで最早一大事わたしは部屋で絵を描いていた

合皮に萌える

今日は、手袋を買った。三千円のやつ。ノーブランドの合皮なんだけど、手触りが良いので買って良かったと思う。

 

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それで思ったんだけど、持ち物の質感っていうのは大事だと思う。「もうこれは、しゃーない」ってなるまでに古びれてもしつこく使っているものもあれば、これを持ってるだけで嬉しいっていう好きなもの、気に入っているものもあり、考えるとその質感てのを離れていても覚えてるものだ。あれがあると思うだけで少し生活が華やぐ。

この間もらった、紅茶入れるポッドは透明で、綺麗な色が見えるので気に入っている。ルイボスティーとか入れるときもこれを使っている。

 

あとは

・ガラスの置物(犬。アイコンになっているやつ)

・オリーブ色のベルベット素材ぽいスカート(これを着ていくと、何が楽しいんだか知らないがからかわれる)

・こんまりさんの手帳(表紙の色がいい。青+緑のような色)

・トートバッグ(おばさんのパンツ素材)

・ベージュの○○○(ユニクロ

・眼鏡

東京ディズニーシーで買ったぬいぐるみ

・星と月の形のイヤリング(付けてないのと同じくらい地味)

 

書いていて思ったが、ふわふわ女子の日記のようだ。手袋、これを買う前は三百円ショップの手袋を三年ぐらいハメて歩いていました。

名詞を選ぶは時代と関わること

恋してるしてないことに関わらず毎月のこと産まないでいる(tmtkkiy)

 

 

短歌集買った!

短歌集は、やっと買って読んでみたいと思う人のを見つけたので買った。ふつうに、近代歌人の有名な人でも歌集はAmazonでは売っていないみたいだ。葛原妙子の歌集などは、二万円くらいまで値段が釣り上がってしまっている。こうなると、Twitterで短歌botをフォローするのもありかもしれない。

短歌をやっている人は、短歌の編集誌を買うというのが基本で、あとは結社の冊子だろうか?

 

良い短歌を読むときは感動したりもする。ていうか、良い、と思うのってなんだ。それは人によっても違うし、なかなか説明するのは難しい。生命だったり、刹那的な感情がわっと迫ってくるような感覚を、起こさせるためには何が必要かというと「言葉選び」なのだと思う。

 

兄妹(けいまい)のくちづけのごとやさしかるひかり降る墓地 手放しに泣く(山田富士郎)

 

何故か分からないがこの歌ははじめて見た時に迫ってくるものがあった。兄、妹を詠むこころみは昔からあるようで、それも実兄や実の兄妹ではなく架空のだったりもするらしく、これは分からないけど「ごと」とあるから架空なのかもしれない。

こういう抽象的な表現には当たり外れがあると思っていて、けどわたしの世界から見た場合しか知らないし、その感覚が正解なのかどうかと言われると割と怪しい。答え合わせするとしても白か黒かには分かられないところがある。

なんだか陳腐だな、軽いな、そういうのを深く探ってけば「自分の持つ兄像、妹像とちがうな」っていうところにたどり着く。主観じゃないかっていう。

この歌の口づけ、だけどこれは一歩間違えると気持ちが悪いのである。けどその気持ち悪さの隣には危ういような平常では感じることの難しい刹那的な感情があり、それを「やさしかる」に繋げたので成功してるように思える。それは、恋愛や欲求などではなくて挨拶みたいな慰めみたいなものなのかもしれない。ここに当てはまる言葉をたとえば動物、それから存在しない架空の生き物にしたって良い。けど兄妹にすることでそれはだれもが経験したことのある類似の経験を思い起こさせる。名詞、固有名詞、その間にあるような言葉だと思う。そういう概念ってのはきっと時代によっても変わっていくのだろう。(しかし平安時代の歌を見てもほぼちゃんと意味が通るというところがすごい。あの時代のは、異世界っぽくてちょっと笑っちゃうようなところもあるんだけど)わたしはこのことを考えるとけっこうわくわくしてくる。だからこんなに長い文をかけて書いてるんだと思うけれど、選んだ言葉はじつは、わたし一人だけから出てきたものではないのである。新聞や、テレビ、それから本、日常で聞くことを、知らず知らずのうちに人はストックして生きていて、さらに常識や、その中での自分の立ち位置を測ってちゃんと選んでいるんだなと思うのである。繋がってるのだ。短歌において、わたしと今の時代は。

だから、作るにしても、妄想だけでない、この短歌だったら、同じような存在に対して何かを与えないギリギリの関係を持ったという経験が感覚になってこういう詩をつくらさるんだと思う。

 

わたしは、だからきっと、あまりにアニメ的なのはいやなんだなあと思った。その像に対して、なんか消費されちゃったなあというのは。よくあるじゃないですか、今流行りの兄推し妹推し、みたいの。画一的に象徴化して、何人もの作者がその虚像を消費していく。こうなるとコンビニのスナックの在り方と区別がつかない。一人がやったらこぞって模倣する、そういうサイクルってのは確実に今の日本にはある。

だから変なこと、新しいことをやれば奇異の目で見られるのが普通なのだろう。そういうのは最初のころ「気持ち悪い」って言われる。けど、ブレなければ、必要不可欠なものであれば、淘汰されないで残るんじゃないだろうか。

生命や自然に対するものに対しては敬意と、それから真剣な言葉遣いをなるべく用いたいと思う。けど、よく失敗しています。それでこれがまた、力み過ぎるとヘンになるから難しい。その、難しいってところが、短歌の面白みなのだと思う。そのところに悩み続けること自体が創作だと思う。

わたし好きな短歌は程よく力が抜けていて、生活や或いは死さえも面白がるユーモアがあるのが多い。そう、ユーモア。それでもってそのものは輝く。もちろん恋の歌も好きですし、キレイだったり、笑っちゃうようないろんな種類のユーモアがあると思う。

自分で作っていてもダメだこりゃとか、上手くないって思うのは常にある。でもまた、勘違いして、やれるかもって思う時もあるから作ろうと思うのだ。

 

しかし本当によく喋りますねわたしは。力みすぎてないのがいい、と言いつつも今、自分はめっちゃくちゃに力んでるのがわかる。

短歌ってもの

あかざかな情緒なく煮る完成を知らぬわたしと浅広い鍋

 

間違えて叱られるときわたくしは延長線上にあるたぶん草花

 

其れなどは二次感情であの時は間違えていたそっと鼻かむ

 

夕晴れて可能性ばむ束の間の碧広過ぎて帰りたくない

 

夏空のプールに風船埋めつくしもつれたけれどいつも正しい 

見本誌取り寄せた

誘惑してこない恋人折り目つくシャツ折々の本の中骨

 

獣でありてらいもないさ懐はきっとむくだろ火傷だらけの

 

 

今日、申込していた短歌結社の見本誌が届いた。メールで四つ申し込んで、二つは返信なし。そのうちの一つは二週間以上前にメールしたから、もう忘れられてると思う。こういうのって、再連絡した方がいいんだろうか?こちらにそれほどの熱もない場合「まあいっか。」ってなるかんじ。まあ、縁がなかったということか。

見本誌は、SNSで知り合った人が結社選びに迷っていたら雰囲気を知るためにと勧めてくれた。それぞれの結社のホームページを見てみれば請求方法が載っています。有料のもあれば無料のもある感じです。

届いたのを見て「想像してたよりも分厚い」という印象だった。開くと、選者ごとに章にわけられて投稿した人の短歌数首が並べられていて、時々コラムが載って居た。他の結社はどんなかんじなんだろうか。

 

この結社は、わたしの好きな歌人が所属していて、だからリアルタイムでのコラム、短歌が見れるというのは想像してた以上の感動がありました。いままで数十年前に書いた本などを読むくらいだった人が、本当に同じ時間に存在しているんだ。これは学生の頃、我が家のパソコンがインターネットに繋がったとき、それからSNSで有名人をフォローしたときの感激に近い。テレビを通してだとそれはある意味で「ショー」にしか見えないので相手が存在しているという感覚がいまいち薄い。それが、手元に届いて、かたちあるっていうことが嬉しかった。

 

見本誌取っても多分読まないっていう人もいたけど、自分はそういう情報に飢えているので、これは読みますね。そういう人たちが、それも情報誌のように対公ってかたちではなく結社がよくなるようにっていう太陽のような精神のもとに活動されてるんだなあと思うだけで、なんだかやる気が湧いてくる。

しかしはっきりいって見本誌自体は読みにくかった。なにしろ短歌が、作者の出身&名前だけという情報のもとズラーっと並べられているだけで、多分これは数百首あるんだと思う。「こんなにも短歌が好きな人がいる、、、!」というのは嬉しくもなんともなく、ただただ「多くない?」という印象だった。これはどこの分野においても同じことなのかもしれない。短歌で特殊なのは年配の方も多いなということです。

しかしこれだと目を皿のようにして観なくてはならない。短歌の技量、知識が身についてない身で、こういう珠玉、異種間混合のをただ時間の流れるままズラ〜と見ているのはなかなか辛い。というか、自分には時間が無さすぎる。

だから勉強とは別にっていう視点で見る、あとは投稿(?)するっていう感じなんですかねー。

 

 

良い短歌って何

で、思ったのは「良い短歌ってなに?」ってことだった。これだけずらっと並べられて、やれ◯◯選だとか特選だとか言われても何が何やらよくわからない。いや、よいと言われても、「もっとこの人の歌が読みたい」って思うもまた別問題だと思う。

岡井さんは短歌の基本が分かってない人もいるように見えたがって書かれていたけれど、その上基本とかいわれても右向け左向け空を向け、みたいな感じで脳が「全て意味不明」と捉えそうなくらいわけわからぬ感じ。あせってきました。

 

真面目〜な流れの中で一人ゆうゆうとユーモアある短歌を詠んでる人がいるとけっこう目立つし、いいなあって思ったりする。変わらなさが。存在とか、空気感ってことか。視点が良いのを、羨ましいって思ったりする。そのうえ、書き尽くそうという気概と、語彙の多さを羨ましいと感じる。ああ、そうだこういう刺激とかもいいのかもしれない。まだ自分の唯一無二感は、得られていない自分がいると思った。

ベンキョーですね〜。あと望むのは、良い同志に恵まれて師にも恵まれたいということです。

 

わたしも早く「この歌がいいと思った」ていう抜粋をしてみたい。

寝ながら考える(宇宙)

一人置き二人目置けば誰も皆続いて行くさそれが群衆

 

雑多なる卯月の教室それが何故同じ言語で話さむ如月

 

 

(寝起き、半眠り中に頭にいくつか思い浮かんだ短歌、岡井さんの感じを真似して作っていたと思った。似てなくても)

色々めぐり考えてまた始めの岡井隆歌集を読んでたりする。やっぱり岡井さんの歌は良い。飲み込みやすいし腑に落ちるっていうか。ここが私の本当のはじまりだ。よし、よしみたいな気分になってきていた。

「現代短歌入門」「現代詩入門」どちらも入門だけど、難し過ぎて読むの諦めた。現代短歌入門の方は結社と人間関係のことだとか書いてあってなかなか頭に入って来づらい。おそらく岡井さんがまだ若いとかに書いたものだと思うのだけどわたしとしては「技量も知識もそこまで行ってないいいい」っていう感じになる。多分これを詠んでて意味がわかるのは短歌人の、それも脂の乗った人達だけだと思う。短歌を読むとか創作するってのは時にぶつかり合うことだってある。相入れなければ、流派が違うってことなのかもしれない。思想家ってのはエネルギーが凄いんだと思う。

今日は体調不良のため仕事休んだ。ずっと布団にいて、短歌に関する本とかを読んでた。あとネプリとか。ずっとそればかり読んでるのが自分にとって本望なのかもしれないが、途中から仕事してない自分に嫌気がさし始めたりしていた。夕方くらいになるとなにか「ぱっ」と転換するようなことってないかなと考え始める。不思議なもので、忙し過ぎる日常に見る短歌の本、短歌ってのはすごい面白みのパワーを放ってくるのに、こうやって時間が死ぬほど余ってて規律するものが自分にないときには短歌も料理もテレビもミソもクソも全部部屋に沈殿する思い金属みたいな気分になってくる。そうして街には飲み屋ののれんがかかり始めるのである。

そういえばこの間中華料理屋に行く機会が何度かあったんだけど、そこの中国人のおかみさんが忙しいことに普通に怒っていて面白かった。あ、そっか、この人は愛想しないんだと思った。そうすることにより、あたしら日本人客は幾らかちぢこまり、より礼儀正しくなっていた。机、店の作り、レシピも全部おかみさんレベルにぞんざいである。けど料理が結構美味しい。量も多いし、それにこんなにいっぱいついてくんの?!てくらい安価で惣菜も付いてきて満足した。おもしろかった。一人では絶対入らないけどたまに行く分には良いと思った。

 

中華料理店のおかみは中国の言葉しきたりで大きく笑う

 

短歌を昨日今日はけっこう作ったつもり。だが、しかし、短歌ノートの方は溜まっていない。全てネットの海に放流してしまっている。

今まで力んでやってたけれどちょいさらっと目に作った。

歌集が買いたい。また岡井隆歌集を買おうかな。それか、万葉集の解説か、アンソロジーのやつか、何が良いんだろう。自分的にはこれだって思った人の歌集を腰を据えて前後してみたり途中読みしたりして繰り返し読みたい。

これからも好きな短歌、よく分からない短歌、それについては口に出さずとも批評する精神を備え合わせてたいと思う。それが自分の短歌を切りつけることもある、なんてのははじめからずっと感じていることだ。

メモリー・キーパーの娘

死に至る如く確かな英文の現在進行形に放つ兎

 

短歌の本でなく普通に小説を読んでいます。

 

メモリー・キーパーの娘

メモリー・キーパーの娘

 

 

今たぶん百ページ目ほどだけど面白いです。感想は、うざったいことかもしれないけれどまずは表現の無駄の無さ。これは英文ならではのことだと思う。それから直喩の美しさ、情景描写からの心理描写への移行の美しさ。どれも洗練されていると思った。例えば色を表現するにしても、緑色に並べて「豚の血のような(赤茶?)」のようなレベルの描写がずっと続いて行く。

私が本を選ぶ時は小説でも外国の女性の筆者の描く私小説をデフォルメしたようなのを自然と手に取ってしまっている。女性が書くからだろうか?心理描写が精密で、腐る事なくちゃんとした落とし所に行きつく感じが多い。悲しく強かにある、っていう感じ。

 

話がかわるけど そういえばのぶみの歌詞がSNSで炎上していた。わたしはそれをわりと興味深く見ていた。まず、思うのが「のぶみ胡散臭すぎ」ということだった。人は見た目が9割というが、それは顔かたちのようなものではなく、とにかく生活や心情ってのは自分の思っているよりも見た目ってかファッションあるいは話し方に100パーくらい現れてしまっていて、だから毎日嘘ついてるような人は前髪盛り放題だったりヘンな笑い方するよなあというような目がわたしにもある。

 

 

短歌の話に戻る

短歌の解説って書いちゃダメなのかな?わたしは「これは、こうこうこうで、こうこうこうこういうことなんだけど、『どう思いますか?』」みたいなことまでウワーッと喋りたくなることがある。けどこれは野暮だとも言われそうなことで、嫌う人もいるだろう。岡井さんもその辺のことは書かれていた。「必要ない説明いらない」だそうで、でも私は短歌がどんなふうに見えているのかを知りたいし説明したい時期だと思う。

今日はその辺をなんのてらいもなくやる私で居てみよう、と思います。上の短歌は英文を読んでて感じたことを短歌にしたためたものでした。英文で、「こうならばそれはつまりこういうことなのでろう。一体、それ以外のことが彼女に◯◯をもたらしめるだろうか?」みたいな言い回しがすごく好きで、わたしもこういうことをボールペンで黒々と書き散らかしたくなってしまう。その心情はあると思うんだけれど、例えば日本語だったとしたら「例えばこういうことがあり、Aはこう決断を下したのである」となりそうなところが、英文ではいったん通り越して、また戻って、その回り道によってよりいっそう光る定点を確認しました。てところで個人があるいみくきやかにうかびあがって来るという感じがある。くきやかに。

 

 

 

男性性感じる時は跡形なく色は重ねて黒くなるもの

→男性性ってのは瞬間でしかない。ほかは単なる雑さ、あるいはこっちを母とでも思ってんのか、みたいな印象で、相手は気付いてないかも知らないがそう感じるのって遠くを見て酷いこと言ってる時だったりする。

 

固まった肉食べて居た雪の屋根nちゃん今も元気でいますか

→雪降り積もった日、わたしとnちゃんは屋根の上で(記憶がたしかならば)マグロ固形肉みたいな珍味を食べていた。あの頃の積雪は物凄かったって気がする。あと子どもって意味不明なことをする。

 

笑う時予定不調和の香りする躾けられたること寂しくも

→後の句を「よく躾けられた犬のような人」にしようと思ったんだけど、こうやって書くと自分がなのか相手なのがか分からない。