今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

短歌にっき4/19

父親のこころ動かず中々に、不意を待つとき子の心地する

 

秩序とく顔真面目なり代り番に大人を選び歩み来し事

 

母の自由、父の沈黙のちに子の憂い膨らむ切なき人は

 

皆ひとりひとりで生きろと言いし日のこころ計れず胸底の重み

 

選択を天に委ねたくもなしが人憎みきるとき止め処なさ哀しも

類語辞典を買って、その後

類語辞典を買ったんだけれどその後、あまり使う機会がない。類語辞典というのはひとつの言葉と似たような表現を探したい時に引くものなんだけれど、何か用途が合ってないからなのか毎回「ビタッときた」という感覚がないまま結局、ネットで検索して言葉を調べたりしてしまっている。もしかすると古語辞典、もしくは普通に国語辞典を買った方が良かったのかもしれない。

 

たとえば、この間わたしは短歌を作っていて「複雑」という言葉の類語を調べたかった。複雑で引くと、類語は「繁雑、煩雑」そのご「煩わしい、煩い、面倒」などが出てくる。複雑というのはどうやら、雑多でごみごみしているというイメージだったらしい。しかしわたしの調べたかったのは、「色が混ざり合い、まだひとつに溶けきってない様」だった。なんていうか…未完…的な?その後どういう経路を辿ったのかはっきりとは覚えてないんだけど、とりあえず「混ぜる、交ぜる」で引いてみる。これまた「混乱、引っ掻き回す」など秩序ない文字列が踊り狂っている。そうじゃないのよ。雑多な、っていうよりも未完…マーブル模様的な意味の……ってわたしは言いたかった。で、その中で「複雑に入り混じること」という意味の付いていた「錯綜」を今回は使ってみることにした。はっきり言って最初のイメージとは離れてしまったがまあとりあえずは仕方ない。

(ところで「とりあえず収まりのいいところで諦めを付ける」の言葉が今、出てこない…なんだっけ。)

てな感じで、あまりピタッと来るようなのが見つかったっていう試しがない類語辞典をなかなか使わなくなってきた。この言葉で良いのかなって迷う場合というのは、あまりに俗っぽすぎてたり使い古されていて、それを入れたことで平素な歌になってしまうという場合に迷うことが多いのだがほぼ、「もう、知ってる」程度の言葉しか載っていないからだった。それともわたしが分かっていないだけで、何かもっと上手い引き方っていうのがあるんだろうか。

一応そういう時はとりあえずの言葉を入れておいて、あとで変えたりなどしている。それで、上手く行くときもあるし、そのままなときもある。

あと類語辞典には意味がそれほど長く説明されてないという点がある。もっと深く、そのニュアンスこそ今、知りたいのにこれだけ?…てなるので結局検索ボックスを駆使することになる。そしてそれだったら国語辞典を使えば良いのだった。

 

語彙を増やしたいのなら単純に読書して、物の見方を増やすのしかないなあと最近は思う。類語辞典は文章書きの人がなーんか、思い出せないって時とか間違いがないか調べるためのものなのかなと思ったりした。「このイメージを深掘りしたい」「言葉を飛躍させたい」ってときに類語辞典はそれほど役に立たなかった。いや、もしかすると使いこなせてないのかもしれない。例えば猫の種類を調べるにしてもネットの方がずっとたくさんの種類が出てくるし、英語名とかだったらもうそれはほぼ出てこない。

 

わたしはずっと自分が手元にあるてごろな小麦粉と卵で短歌つくってる段階にあるような気がしている。よくやってんな、ていう。何かの概念を表すにしてもやはりぱっと出てくるのは使いなれた言葉なのである。

Weについて(ポエム)

わたしたちはいいのです

朝、昼夜と並ぶ食卓を囲みながら思います

木はわたしたちを落ち着かせます。その事に気付いた時から、わたしたちの選ぶ家具は木製ばかりになりました

また金属も同じです

わたしはそれに手を当てています

光を反射するものは定位置に置くことで力を発揮します、それは夜の夢の役割を果たします

それよりも、死んだ子ども達のことをご存知ですか

その彩の届かない場所から祈ることについて

それらの中、闇はいのち、光は暴力

深い紺、それから緑、赤と茶色と黒、紺碧色

日中にあるとき、喧騒はそれを忘れさせ

一人になり心は混沌となることを喜びます

昼間は光に満ち満ちていて、だから悲しい

わたしは、忘れていきます

ある意味でそれは、世界の役割のひとつを担っているからでもあります

わたし達が思い出すのは歌のみです。わたし達はその力を借りて、それらに成り代わって歌います

ほとんど 怒っています

命と、何もかもを吸い上げてゆく緑に。

ああ 今日も言葉と、精霊はうつくしく、

歌は何もかもに調和する

それは命にも異議を唱えつつあり、

夜はそうやって更けていく。

成り代わることに忙しく、遊ぶことは一瞬であるのに関わらず、それはほぼ命と同質でもある。

全ての眠りが清くある夜に。

一日一歩、三日で三歩

休日の雨は大きく降りしきむ我の幸い小さくあれども

 

泣く人を見つつ思わむ誰しもが急き立てられてありし責軽し

 

寄らぬよう揺れる木立の声遠く風の吹く間に死ぬその日々を

 

 

岡井隆の「歌を創るこころ」を読んでます。岡井さんの本には古典が多く引用されていることが多いのですが、やはり古典は学ぶところが多いと感じる。古典の印象としては「すごく静か」というところ。主語がうるさくなく、単語にしても自然の現象が多くて美しさを感じる。それと比べると現代のは圧倒的にうるさいものが多い。これは時代にもよるのかもしれない。自由、物質、選択肢に囲まれた現代では、ある意味エゴは勝手に膨張していくという文化の盛りなのかもしれない。エゴで書き表されるものは物、文化、のみならず他人にまで及ぶ。そういった過剰なものはいつか時が満ちた時に自然と滅ぶのだと思う。私や、それに虐げられる人たちの待つのは、その破滅の時なのかもしれない。

 

しかし頭でばっかり考えたものってだめですね。自分の日記を読み返しても理屈の螺旋迷路に彷徨い込んでるのがいくつかあって、見てて疲れてきた。またその最中にいる時はまったく正気ではない、ってことに対してもビビってしまう。実感のなきことは常に危うし。

 

それとはまた別の話だけどこの歌が気になりました。

 

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目にみゆ泣けとごとくに(石川啄木

 

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食はむ(麻績王/万葉集

 

わたしは石川啄木が気になった。「泣けとごとくに」という句はなかなか一度聞いたら忘れられない。泣けとごとくに…と感じることは生活の中であまりなく、とにかく最高に寂しいのだというのが伝わってくる。自分はもっと客観というか、少し自己と距離があるものの方が好みだけれど、これも面白い。

二句めのものも、「藻刈り食はむ」という結句が気になる。なんていうか、文化。なんだろうか。

 

現代のを読んでても面白いなあと思うのは「泣く」ことに対してあまりにも素直に読んでいるのがたまにあること。これって、昔の人がやってるからやる、的な感覚もあるのかな??なかなかそれが現代から見ると唐突な感じがするので、あえて泣くことをすんなり表現するってのはチャレンジ的な感じだ。わたしが泣く時ってどんな時だろうか。それで読んでみようとも思ったのだけど結局客観になりました。

 

この本の中で岡井さんは「短歌には自己演技的なところがある」と書いてあったけれど確かにそんなところはある。「歌にしちゃうよ」という意志、立ち上がる、的な一ターンを経て正気に戻れるみたいな部分もあるし、自由気ままに感情を書きつけていくときもある。いずれもそのシーンを自分の中で演じるという働きがある。泣いている最中に、悲しみや怒りを書き表すことはできるだろう。けど、「その泣く私」そのまんまを書くというのは視点がメタに、それもかなり素直になってる感じがある。なんていうか、「痛かった」とかなら後で素直に書き表わせるだろうけど「泣く」となると羞恥とごったごたに絡み合ってるのでなかなかそれは物凄い肯定の空気がないと出来ないって思った。

ネオ人格を駆使して…それをやる的な。

 

この間推敲している時にも思ったけど最近短歌つくってると名詞止めになる傾向がある。これも気付かないでやってしまっている。

今のところで思うのが、視点はいくつあってもいい、ていうことと改作はすぐに行うべしということだ。評価を得るのは嬉しいけど、それに伴う批評を受け入れられないようではなかなか作り続けるのは難しいと思う。批評、っていっても相手や、され方にもよるけど受け取るべき価値ある批評はたくさんある。特に短歌はいろんな流派があり、そのそれぞれの話にはきちんと文化や理屈があるのだと思う。そういう相手から一段階で二度と受け取れなくなるというのはもったいなく、わたしも態度を改めていこうと思う所存であります。(赤ん坊のような立ち位置から)

 

わたすは短歌人

短歌を作り続けているとどうしても思考が近眼になってくる。

この間丸一日を短歌の製作、推敲に当ててみるというのことをしてみたんだけどなかなか(自分の中で)有意義だった。朝早く起きて片付け終わってから今日、やるべきこと(100パー、短歌のこと)をわたしは頭の中で組み立てて行った。その結果、まず結社に送るものを抽出し、宛名書き、ポスト投函までを遂行することが出来た。

わたしの頭の中では賞のことがあった。賞に出すもの、結社に出すものの区別を付けるのが特にテーマもなくやっている自分としては難しかった。

そこで少し離れて、紙とは向き合わずに頭の中で考えてみることにする。そうすると「あれ、短歌って…何?」みたいな感じになってくるのである。自分は何のために、何がしたくて短歌をやっていたのか、ってことをいちいち確認しないとわたしの場合どこかへ送るということも意志薄弱になり出来なくなってしまうらしい。そういう時に自分とはまったく傾向の違う短歌を読んだりしてしまうと「も〜なにもかもがイヤ!イヤ!イヤ!」って感じになってくる。そうして右往左往したあとで、岡井隆の歌集を見ると、家に帰ってきたかのような安心感を感じた。わたしはその日を通して直進、不安定、破滅、のち安定とい経路を辿っていた。一人で。

 

とにかく短歌を作った。それを見ている時はっきり言って何が良いのか何がしたいのか分からないでやっているのである。「ふっ」と離れると自分のやっていたことというのは滑稽である。何が、31文字だ。何が、57577だ。普通にしゃべれよ。普通に。その後風呂に入ってご飯食べて、また好きな歌集を読むことで、なんとか形を保っているといっても過言ではないだろう。

 

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ところでさ、さ、さ、さーと書かれたかのように見える短歌を見ているとなかなか構造自体も面白いということが多い。ずっと作っていると思うのが、57577の形はやはり歌なんだろうということで、秀歌と呼ばれるものだったり達人が作るものには盛り上がりがあり、下がる、緩急などを意識して作られているように思う。達人ほど、57577を守るのは当然ではあるが、しかし常に破壊も試みられているとわたしは感じている。壊したいと思う人間の欲求と、ただそこにある型としての57577との、それは戦いなのである。

 

※画像は、無意識レベルでこういうことが起きている気がする!という閃きを描いたものです。

日記4/9

短歌に対する嗜好がブレがちなので、何を書き表わせば良いのか分からなくなってきた。とにかく創作となると、つねに量産していなければという意識が出てくる。一週間前のものはもう既にわたしではないような気がして、どうすれば満足となるのかが分からない。どうピリオドを打つか。紐解いていけば、上手く言った時はその感覚を忘れたくなくてやるし、上手くいかないときにはそれを塗り替える気分でやる。振り返って考えると一人でやる間はそれが止まらなくなる状態なんだと思う。だから、満足はずっとしない。

 

修正しつつ行く

少し前までは古典を深めたいのがあったけれど今自分の気持ちは口語の方に向かっている。文語調のものをそういう気分になっている時に読むと違和感を感じてしまう。口語で出来ているのもいくつかあると思うけど、感覚的によくわかっていない。けどそもそも、自分は事象を表したいという欲求があるんだと思う。それだと後で見たとき大分年配の男性が書いたもののように見えることがある。嗜好が目的がなかなか噛み合わない。理屈に頼ってしまう傾向がある。理屈の世界で生きているのだからこれは仕方がない。ポエムに逸れる時は、多分意識してやっているのである。あとは語彙が少ないと思う。

 

短歌アンソロジーで色んな人のやり方を見て、それ見るごとに自分の形ってのはけっこう変わる。「他人から見るとどう見えるんだろう」というのが常にある。自分はまだ、その「個人でやる」という域からは出られていない。

気分によってひとつのものの見え方まで違って来るのが良くないと思う。

 

色々を読み過ぎると簡単にブレるというのはまだ短歌に対して浅いところにいるせいだと思う。ふと思うのが、似ている人といるのと、似ていない人といるのとどちらが良いのだろうということだ。まんべんなく採るのか、自分が好きなもの、行きたい方へ行くべきなのか?けど現実的にこの悩みは意味を持たないだろう。悩みは、創作のことだ。自分は、結局、事象を表したいのだから、「岡井隆」全歌集を買うべきなのかもしれない。女性のを見たい、古語、それから口語について考えたいというのもある。けど何か指針みたいなものが欲しいのである。

全歌集は一冊九千円近くする。四冊買うとなると三万六千円にもなってしまう。かといって手の届きそうな値段の鉄の蜜蜂を買うといってもまだそれは早いような気がする。

 

短歌への批評

ところで、短歌について話したりしたいという思いもあるけれど、何かの短歌を取り上げて感想を言うのでもそれは結局事細かな「わたしは違う」「そう思わない」というのを生むのだと最近は考えたりしている。だから感想と言っても自由に頼るのはあまり良くないような気がしてきた。かろうじて「好き」っていうことに留めるくらいだ。これは自分の経験だけれど「こう思った」と言われてもいや、違う、違う、違うってなる場合、何が違うのかというと温度差だったり視点(自分を見ているか、私を見ているか)だったりするからそれはほとんど話し合いにはならない。どれだけ何を愛しているのかと言うことを絶対に人は変えない。

 

結局、歌集欲しい

やっぱ、「歌集を読む」以外の解決法はなさそうだ。こういう悩みは毎日大小さまざまに湧き出てくるけれど、情報が自分の中でうまく処理できて居ないのかもしれないと思った。歌集はいい。良い歌集は良い。それによって考えらされることも、悪いことの部類ではないと思う。そうだわたしは、短歌をやることで、短歌している人同士でしか話せないことを話したかったんだと思う。似ている人がいれば嬉しい。

 

女性性について

女性性を表したいという気持ちがある。他人のを読むと、こういう心理があるのかって目から鱗が落ちるようなことがある。女性ってのは、優しくてズルくて、可愛いことを鼻にかけてて、たまに傲慢で、正直過ぎて深く付き合うとバカみたいな時がある。でも何故だか許せてしまう。わたしの場合、そういう直情的な部分があるとしても遠目に見ている感覚があり、だからそれをそのまんま表すという感じにはならない。その抵抗、見ていて、何かと擦り合わせているワンクッションが自分の人格だと思っていて、まんま湧いて来たことを表すとなると、だからどこか他人行儀な感じがある。こういう子どもがかつて居た、でもそれにそれなりの愛情を持っている。書きながら、演じているのでしかない。「望まれている女性性」それを創作で演じる楽しさというのはある。それに何かするにしても自分が受け入れられたいという欲求と、それから女としても受け入れられたいという欲求もあるんだなぁと思う。これは不思議なことです。だからわたしも、結社や賞に何か送るにしても女性性をまったく無視して投稿することは、多分ないと思う。切り離せないものだ、それは。(話変わるけど結社に送るのは良いって思ったものじゃなく「これはどうなのかな?」と判断を委ねたいものを送る方が良いのかな?ていうかまだそこまでの進度でもないの?)

でも創作ってそんなもんか?人格なんて、周りの環境によってもいかようにも変わるものだ。

「ズボンが履きたかったのに」女性の抜け道としての男性化

「従姉妹たちの小部屋に行くと、使ってもいい

引き出し二つに、わたしの物語りすべてと、わが十六年のほとんどを何とかしまいこもうとやってみた。」

 

ズボンがはきたかったのに

 

ラーラ・カルデッラの「ズボンが履きたかったのに」を読みました。多分二度目だと思う。閉鎖的な村社会、家庭の娘として生まれた主人公は、男尊女卑の濃厚な抑圧された空気から逃避するための思想として「ズボンが履きたい」という考えを得ます。さもなくば、淫売となるか。ここでいう淫売というのはふしだらな、というのではなく、世間の噂や人間関係に埋もれた没個性として生きるのでなく、はっきりとした自意識を持つ(それも女、という)という意味合いなんだそう。たとえば教師の目を見据えて自分の意思を訴える、なども淫売だと見なされるような社会に、主人公は女として生きています。彼氏とのデートなんてのはもってのほか。女はそれらしい欲求を持つ女としては生きられず、静かに、仕えるものとして口を閉ざし、欲求も意思もないかのように暮らし、ムチで打たれることにも耐えなければならない。

 

主人公はあまり勉強の方も女としても秀でてる訳ではなく、それが読み進めていく上でなかなか悲しいものがあった。例えばこういう場合、想像力や、知性あるいはユーモアでそれを切り抜けてくれるのならこちらもある程度爽快感があるのだろうけれど、実際はそうでないことも多い。耐え忍び、自分にも自分の家族にも足りないものがあることを自覚しつつ生きなければならない。こうなると、今で言う「勝ち組、負け組」なんていうのは一体どういう尺度で測ればいいのだろうと思う。人間はしかしはっきりと、差別をして生きているのだと思う。「◯よりはまし」と考えるのは正常な人間の思考回路で、そうすることで常に自らを救うのである。

こういった閉鎖的な村しか知り得ない彼女らに、抜け道なんてものはないのだ。唯一あるのは、男性と結婚して家庭を持つこと。それはまた、もう一つの不幸の始まりでもあるように描かれる。けれどこういった、道の選べなさというのはそれがほぼ殆どの命のあり方なのかもしれないということを考えさせられる。現代の方が多様化しすぎていて、欲張り過ぎなのである。

文章も決して読みやすいものではない。感情によってあちこちに逸れたり、事実と感傷、想像と現実がごっちゃになっていたりする。

 

序盤は両親のこと、それから始めて得た「淫売」の女友達アンジェリーナのことが描かれている。その対比としての主人公はやはりさえなく、そして大人しい。そして想像力の方もそれほどでもない。わたしが読んでいて思ったのは、それは明らかに秀でてない自分が最後尾の部類だと感じた時に発揮される抜け道のようなものでしかなく見えたことだった。そうでない作品もある。トリイヘイデンや他の女性が語るもので「想像すること」は素晴らしく個人、才能があれば多くの人の救いにもなり得る。けれど、それが中途半端であると単なる逃避にしか見えない。これは難しいけれど現実的なことだとも思う。切り口が珍しいとか、読んでいて楽しくなるとかそういうものも沢山あるのに対して、けどこれはやはり18の世間知らずの、それも普通の女の子が書いたものなんだろう。

貧乏はまだ分かるが、両親に教育がないということの不幸はなかなか書き尽くせないところがあると思う。特にこの主人公の母親はたびたびヒステリックになるところが描かれているが、それも自分の子どもと自分、それから世間のことを構造として切り離して考えられないという稚拙さからくるもので、だからその村、家庭、自分の頭しか知らないということがこういう人間を作り出すのだと思う。

 

最後、主人公の唯一の理解者であるおばの暴露日記を読んだ主人公の反応は興味深かった。わたしなら、と思うのが、わたしだったら赤裸々に語られれば語られるほどに、冷静にならざるを得ないということだった。何故ならわたしはそれを抱き止めてやる男でもなければ、心配してやるようなあなたの母親でもないからだ。慰めてほしいのなら…とかそう考える自分てのは冷たいのだろうか。

この場合は主人公はおばに敬意を持って語り過ぎず、親愛を示すことにとどめるという描写だったけれど、この主人公とおばのように親しい相手だったら、それから自分の悩みを追体験するかのような暴露だったら感激するのだろうか?「共に傷付ける」という点において?

 

しかしあまりに深すぎる悩みにはなかなか簡単に手がつけられないし、理解してほしいと訴えるのも難しいことだと思う。わたしたちはやはり、個性と個性は、簡単には結びつかないものなのだ。遠目に存在していて、それは偶然重なるというのに過ぎない。だから強烈すぎる感情体験や、俗っぽ過ぎる葛藤の詰まった日記なんてわたしは絶対他人には見せたくない。

いや、相手を舐めてないからこそ見せたくないのである。

 

家から出て行くところから、ラストまでの主人公の心理描写はなかなか面白かった。感情を書くにしてもそれがどういう経路をへているのか把握するのは難しいし、回想になるといろんな欲求や理想と結びついてしまって、だから事実に即して正しい立ち位置で書くというのは難しい。まともな、読める小説を書くこと、書き続けるのは大変なことだと思うのだった。