今日は、短歌でしか喋らない

短歌、生活についての備忘録

芸人先生ナイツの回を見た

ナイツの芸人先生の回を観た。ナイツ、っていうと抱くイメージは大分ベテラン(ぽく見える)、仙人っぽいとか何かつかみどころがないイメージである。そのナイツが前編では年上の人とのコミュニケーションについてと、後編では商品を売るために必要なこと(キャッチフレーズについて)を教えていました。

 

ひとつめのコミュニケーションについて①話の聞き手に回る②わざと回答をはずす(ズレたことをいう)というのがなかなか最初はイメージしずらかった。ナイツと、これまで出てた芸人さんで何か違うな…と感じたのががっついてこなさ、成り上がってきた感のなさである。わたしはよく知らないが、多分テレビで活躍している芸人と漫才を劇場でいつもしているという活動の仕方の違いがあるのかもしれない。

 

話の聞き手に回る

ズレたことをいう、というのは本当は知っていることを少しずらして応えることで場を和ませる…みたいなやり方だった。一見漫才の世界でしかありえない話なんじゃないか?とも思ったけど、人間のこころって不思議である。完璧であることは返って人を遠ざけたり、頑なに見えたりするっていう意味でちょっと抜くとか隙を作る、みたいのはコミュニケーションの技術なんだと思った。相手の言うこと全てに対して「知ってます!」「●●ですよね」と言われるとそれはたしかに正解かもしれないけれどもっと会話を発展させるために「どういうことですか?」と知らないふりをして相手の話を聞き出すほうに徹するという。

それをわざとずらして言う、っていうのはナイツのお笑いの応用をもろに用いた感じですね。わたしの周りにこういうことをする人がいるけどもしかすると営業の本とかにも乗っていてそれで学んだことなのかもなーと思った。しかしそれは側から見てるとたまに「え、大丈夫?」って思うことがある。ナイツが言ってたように例えば家族構成とかアイデンティティに相当する部分とか、待ち合わせ日時みたいな重要な場面で使うとバカみたいに見えるから注意した方が良いと思った。あくまで、話のとっかかりとして…て感じかもしれない。

ようはサービス精神ってことかな?

 

「買わせ」ない

後編では商品を買わせるのではなく、買いたくなるようなものを作る、演出するということについて。

ネタを作るときにあらかじめ客層をリサーチして受けるのを選んでいるとかも漫才の芸人さんならではの話な感じがした。普通にやってるように見えて普通に見えない努力をしてるのがプロなのある。

例えば他の芸人さんでは作ってそれが受け入れられるかどうかとか勝てるかどうかという時点での話だった。それは「道具」あるいは自己表現だったのに対して、ナイツの場合は生業…?みたいな。なんというか気合いがないというか勝たないかんねん。いてこましたるねん。っていう感じがないのでわたしのような人間はほっとする。

 

それから商品を売り込み過ぎてはいけない、というところ。これは一度でも営業マンからものを売りつけられたことのある人ならばそれがどういう不快感を与えるのか想像することはできると思う。人も商品も同じで、「良い人ですよ、わたしは」というのは冗談でなければ言ってはいけない言葉なのが、不思議と営業という場だったり売ることしか見えなくなるほどに躍起になってるといわさるものだ。わたしが思い出したのが銀の斧と金の斧の話だった。人間の心理として、「わたしはもらうべきなのです」と言うよりも「いらないです、わたしは」と言っている人に何かあげたくなるものなのだ。それはどうしようもできない真実。

というわけで商品を売るのに備えて時間を費やすべきなのは商品を知ること、キャッチフレーズを付けれるくらいの理解、それからなるべく自然と購買意欲が湧くような取り計らいをする、ってことであった。「自然に」するために相手を心地よくさせることを言う、自然な流れで買わせるのでなく買いたいと思わせる、とかは本当ある意味趣味の領域っていうか、営業職をやったことはないけど、こういう試行錯誤が好きな人ならきっと常日頃やってるのだと思う。

 

 

◯◯芸ナイツ、あるいは

 

あとまとめるべきところがあるのかもしれないがわたしが主観で感じたことは、ナイツ漫才はナイツしかできないと感じるところだった。

自分の特色を知ること、自分自身そのものになるべく近い形態のものを、試行錯誤するなりお客さんの反応も取り入れて作り上げること。それが「芸」なのである。アウトプットは大事なのだと感じた。作る、だけでなくて見てもらう。それで返ってきたものが自分ていう人間の一部になる。なるほど〜!はやくリアクションもらいてえ〜!

 

ナイツが強いのは老若男女から、受け入れられようとしているところだと思う。まずその前提がない人もいるし、思ってたとしても技術的にどうやるの?ってこともあるだろうし、なんというか懐の深さというか。最終的には人柄がものをいうのかもしれないっておもった。

文章を書く行為…

文章を書くことを習慣にしていれば、文章が出てくるのがそれほど困難でないと思う。けど、その習慣が途切れてしまうと特に用もないのに何か書くっていうのがぱったりと出来なくなるのだった。その、無の場所から物事を組み立てて行くみたいな行為って立体的に何かを考えることのような感じがしていて、ネタがいっぱいある、っていうか何を書きたいのかが分かればいいんだけど何も書き表すことがないとなるとてんでダメになる。単に自分の感情の吐露とか、別に誰も聞きたくないようなことあーだこーだ書いてるだけになる。それが嫌だから書かないし、書いてみても嫌だから更新しないし、なんでこんなこと好き好んでやるのかと思えてくる。ブログ含めた創作というのは単なる、習慣でもあったんだなーと思う。必然ではなくて。趣味だ。趣味。だから、それは何日かやり忘れただけで、あっという間に、もしかすると一番先に必要なかったものとして手元から離れて行くものなんだと思った。

創作、書くこと、話すことは一体いつそれは動作として完了するのだろうと思う。何かを書き終えて、反応が来なければダメなんだろうか。そんなことはない。「言い尽くせた」という気持ちの良さはあるはずだった。

 

このブログのアクセス数が時々良かったりするので「一体どうした?!」と思っていたら、スピッツについて書いた記事を辿ってきた人が多いみたいだったのでがっくりした。今読んでみると意味不明な記事だったので即、削除したいと思ったんだけどまああれもあの時のわたしか、、、と思って削除はまだしないことにした。

最近こういう、うっかり更新したけど意味不明っていうか無意味な記事を非常におそれています。

 

 

紅茶にはまっている

最近は、紅茶にはまっています。紅茶って高いものから安いものまであるけど、値段によって香りや味が全然違う。コーヒーもいろいろあるけど、はっきり言ってその違いはわたしにはわからなかった。が、紅茶は全然違っていると思う。もちろん午後の紅茶のペットボトルのやつともまったく違う。わたしはこれまでずーーーっと、あれが紅茶の中で一番美味しいと思ってたのである。

 

仕事がひと段落して紅茶を入れていると、香りが立ち昇ってくる。それが、花の匂いみたいに思える。それを嗅いで、あーわたしは、日常的に自然にも触れてないし、花の匂いも嗅がないで生きているんだなーと思う。

システム重視にある殺風景な空間で紅茶を入れていると、そこだけ自然の匂いがする。

それを思うともっと、花のある生活がしたいなと思えてきた。何か、心が清い女性とか見ていると「家に花が活けてありそう」っていつも思う。花、でなくてもそれに似たようなものを心に持っていそうって思う。もしかすると短歌もそういうものに近いのかもしれない。だからそういうものを他にも、趣味として持ちたいと思うようになってきた。「余裕」ってことですかね。端的にいうと。「整理整頓をする余裕」ていう。

 

あとは、筋トレをして、体重を二キロくらい増やしたい。

読書記録0519(谷川俊太郎 はだかほか)

今日は色々本を借りて来た。

まず、寺山修司詩集。

 

寺山修司の短歌がよく分からなかったので、(短歌も載っていました。)借りてみたのだけど、やはりよく分からなかった。寺山修司というと、とにかくビッグネームで、ファンがたくさんいるという事、兄弟が読んでた記憶があるということ、田口ランディが師事していたということ。

 

しかしこういうのは、好みもあるのかもしれない。わたしの思うに、寺山修司という人は山を切り開いて国を築くような人なんだなあということ。ホリエモン、的な。

 

それから、谷川俊太郎さんの詩集「はだか」も借りた。こちらは私にも分かりやすかったです。

 

 

はだか―谷川俊太郎詩集

はだか―谷川俊太郎詩集

 

 

言葉を持たざる猫とか、子どもだったらこんな風に世界を見ているのかなーと思った。言葉を持ってしまったがゆえに、伝えるべきは意味のあること、必要なことのみになってしまうわたしたち大人も、でも確かにこんな風に日常を感じてはいるのだ。そういう何気ないこと、雰囲気というのは、大切な何かを失った後や、愛みたいなものに触れたときに存在をえて迫ってくることがある。大人がルーティンや伝えるべき言葉に侵食されてしまった以後は、それは雑音のように息を潜めているのだ。

例えば人の顔を見たときに感じること、恐れ、人を好きになることが、他人の言葉でなく感覚に沿って真摯に書かれている。人(大人や子ども、性別によらず。それからモノかもしれない)を好きになったときに何を書き表すか、それはその人を深く知る方法の一つだと思う。

多くの、普通の人は欲求や身体的欲望をイコールだと思う。気持ち良さをイコールだという。それにともなう破壊欲求を汚い言葉で表す。そして、ありふれてるドラマと同じようなメロディとして消費していくことを、恐れない。なぜだろう。たった一人を、ほんきで好きになるとそういうことをしたくないと人は思うものだと思う。人と、その対象は、いつも存在価値としてせめぎ合っている。自か他か、破壊か結合か、愛が死か、そういう嵐のような感情に負けないでたった一人で立つことは、どうしてこんなに難しいのだろうか。

谷川俊太郎さんの詩には、そういう、一人と一人という真摯さにあふれている。挿絵が佐野洋子さんというのも物語の奥深さを感じさせてくれる。

 

あとは、羽生善治さんの「捨てる力」を買いました。まだ途中まで読んでないけど、おもしろい。

 

捨てる力 (PHP文庫)

捨てる力 (PHP文庫)

 

 

将棋をやったことがないわたしだけど、真剣勝負の世界で、テレビの中にあるものや作家とも違って「勝たなければ残っていられない世界」なのだなあと感じた。だから純粋にただただ、将棋が好きでやっている人しかそこには残れない。当たり前のようなことだけど、それが今の世の中ではもう当たり前ではなくなってしまっているから、何か新鮮なのである。

そういう世界にいる羽生さんが、「棋譜の美しさ」について書いている。美しい棋譜を残したい、うつくしく勝ちたいと思う気持ちがある、と書いてあってなんだか胸にせまるものがあった。そういう作法というか、美みたいなものは、ある意味で自分以外のものに敬意を持つからこそ生まれるからだと思う。勝つだけでない、負けることもある世界を生きていて、常に考えも更新していかなければならない、言ってみれば無情な世界である。そこにいて何故人はなお何かを感じたり求めるのだろうと思う。「生き残るため」だけでない何かが確かに存在していて、その瞬間人間は単なる動物ではなく、真理というか、何かを追い求めるものに確かに変化するのだ。「たのしー!」って思うものだけを求めることって、難しい。羽生さんもそう書いていた。負けたくなさや、保守、思い込みに染まれば、新しいことは考えられなくなる。その惰性をまた、思考のみで切り開いていく。そういう紆余曲折を言葉で書き尽くしてくれることがもう感動であった。夢中で何かをやっている人というのはいろんなものを教えてくれる。

 

 

ところでこの間ネットで「村上春樹好き、って言ってる人に会って『へえ、意外』と思ったことがない」て書いてあったのをみたんだけど私は岡井隆さんが村上春樹けっこう読んでるっていうのが意外だった。

女であるわたしからすると、村上春樹の小説ってある意味で男という青春の終わりに対する挽歌みたいなものにも見える。例えば女というものが初潮、出産、閉経ていう四季のようなもので自分のはじまりと終わりを感じるのに対して、男というのは対女性だったり、対社会における自分の価値みたいなものでそれを位置付けていくのかもしれない。しかし異性含んだぼんやりした社会像からそれを価値付けられない(消費され得ない)っていう意味でまだまだ女性よりかは自由に遊んでいられるようにも思えて、村上春樹の小説を読んでいるといつもわたしはそういう生温さを感じるのである。だから短歌を生き生きと詠んでいる岡井さんが村上春樹読んでてしかも肯定してるっていのうのがなかなか結びつかないのであった。

 

 

食べる人類誌―火の発見からファーストフードの蔓延まで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

食べる人類誌―火の発見からファーストフードの蔓延まで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

あとは、これを買いました。まだ一ページも読んでませんが、立ち読みですぐに買うことを決めた。

こういう、食に関する本とか番組が本当に好きである。旅行記、料理番組、本、なんでも好き好んで読んでしまう。でも一応語り部に対する好み、っていうのもあって、食に対してとにかく精神が屈強で楽観的っていうのがあるかもしれない。

 

読むのが楽しみ〜〜〜

 

日記0512

ひとりの自分である「僕」

 

いっとき「僕」を主人公にして文章を書いていたことを思い出した。それは自由気ままに生きている人を見たからで、それを見て一瞬「あー、うらやましいな」って考えたのだ。そういえばあのゲーム機の中には、同じように自分が一生懸命に育てた「僕」があるんだなあと思って、あの時自分はどんな気持ちでやっていたのかなということを思い出そうとした。「僕」ていうのを気に入っていたわけはまずその孤独にあったと思う。誰も寄せ付けず、取りいらなくても良い主人公だった。けどその代わり何か自分の価値を自分自身で見つけなくてはいけないと感じていた。そういうものに成り代わっているという感覚が、自由を得られたようでそれはそれは楽しかった。恋をすれば恋し、辛ければ泣く、喚きたければ喚く。喜ばしいことを、皆が喜んでくれると疑わなくはしゃぎ回る。かと思えばいきなりふざける。ただひたすらにまわりに楽しさを提供していくという部分にいる、そういう主人公。まあ一応、虚構の物語なのでそれでも成り立っていたと思う。でも本当の私はまったく違う。

 

 

嗜好の変化

 

ところで、短歌を詠んでいるうちに詠みたいと思うものは変化してくる。初めはポエジーを追求したものを読みたいと思っていた。多分、嗜好は、こういっては俗っぽいがおしゃれなものを詠みたいと思ってたのだろう。

男性の詠むものと、女性の詠むものは大分傾向が違うように思う。短歌を読む事に対して純粋に面白さを追求するというのはオタクっぽい面もある。

案外、わたしは恋愛の歌を詠んでいなくて、その代わり暗い歌が多かった。作る時は結構暗い方に偏りがちである。

初め「自然詠みのなんたるか」を読んでからわたしの中に生まれたのは「わたしはちょっと自分のことばかり書きすぎなんちゃうか」ということだった。ここはブログっていうか、誰にも見せるあてのない日記帳のようなものなので、そういう方向にそれがちなところもあるけどやっぱり自分の場合、自分の内面分析に偏る傾向があって、それが短歌の表現を狭くさせてる時があると感じた。

口語と文語というのもあった。短歌を読むときに思うのが一辺倒になりがちということで、同じ場所で同じ語で切れてしまうのが気になることがある。いい流れになってない、というか。それを崩したいときに口語の柔らかさというのが効果があるなあと思った。こういう、言葉を得たときにはそれが万能に見えてよく使ってしまったりとかする。

遠くから見ていればそういうのが「またやってるな」でしかないのかもしれない。

 

最近はなるべくシンプルなものを詠みたいと思うようになった。何か一つ、書き表したい時にはいろいろなことを意識して書いてはいるけど、ぎりぎりまで言わないことが綺麗に思えてきた。言葉を削ぎ落とす勇気、っていうか。そういえば歌壇でも取捨選択の記事があって、自分もどっかの日記で書いた気が…。ちょっと前に考えてたのとは違って、今は自己主張をなるべく少なめにしたいなあという傾向だったりします。いや言葉もか。しかし語順がめちゃくちゃでこれで良いのか、ていうそれが今の疑問である。「作りたさ!」になるんだろうきっと。すら〜っとよむのがむずかしい。伝わるか伝わらないかっていうラインを考えるのが難しくて面白い。

 

これまで詠んできたものを人前で見せたりするけど別に自信があるわけでも必ずしも気に入っているわけでもない。でも作ったのは私なんだなあと思えばそれなりの愛着があったりする。一首詠むごとに反省はいろいろとあって、これ、なんやねんっていうやつもある。例えば三月に詠んだやつを今は後悔している。でも見方を変えれば、わたしも日々変化してるっていうことなのだ。

日記0508

アウトプットとインプットが上手くいっていない。ここ一ヶ月くらいは創作の方向性が間違えていたような気がする。それはひとつに、言葉を早く放ち過ぎていたことにあると思う。「創作メモ」なるものをつけ始めてから、わたしはイメージを「あとで考える」のフォルダにばんばん入れまくることを覚えた。あとで名詞を選ぶためにその場しのぎの言葉でこしらえることを覚えた。そして数週間経てば、なんのイメージだったか忘れる…ってことが起こり得るのだと思った。あとは何でもかんでも切れ端を溜め込む。そのせいで「いっぱいできる」実感を得てしまい、さらにスキルの方の向上は停止していったように思える。そうだ!私は単にラクしていたのだ!!!バ〜〜カ!!

短歌、その他創作は遠くからやって来たイメージを上手く掴む、自分の言葉で掴むということにあると思う。そのイメージが、間違えていることは多分その時点ではないのだとりあえずは思いたい。けど、放ち方を間違えることは九割くらいはある。

と思う。

 

とにかく作り方をせめて以前のように戻そうと考えてたりする。もう賞に応募するのは時間がないのでやめようと思った。30首も溜まっていない。もし月詠のやつ終わって余裕が月末までにあったらちょっとは…(まだ、捨てきれてない)。もっと一首に時間をかける方向性でやった方が良い気がして来た。これは全てうたの日で感じたことだった。 

芸人先生〜和牛編(後半)を見た

芸人先生、一応毎回録画モードにしているはずだけど二重に撮れていたり後編だけだったりしてうまく撮れていない。とりあえず和牛の後編のを見た。得たところは

 

・ネタ作り中に考えが凝り固まってしまう

・正直にありのままに

・売り込みの時、感情を載せて話す

ということだった。

 

ネタ中に凝り固まってしまう

これはよくあると思った。視野が狭くなる、このネタで受けたい、あるいはネタの中でも「ここ」「ここ」がいいってなっている時、なかなかうまい具合にそれを結び付けたり手離したり出来なかったりしてぐだぐだなものが出来上がることはある。それがトイレに立ち上がった途端に視点が変わったりして、「あっ今、近眼になってたんだな」とやっと気づく。それから、ずーーーーと考えてきたことの団子状にもはやなってしまった場合、たとえそんなに名案でなくても目の前に「これまでとまったく違う考え」をぶら下げられたとき、それが光り輝いて見えるっていうことがある。こういうのは翌日見るとゴミにしか見えない。本当に創作って不思議である。

「力、ぬいて、、」って言うけどなかなかそれは意識して抜けるものでもなくて難しい。一生懸命と意固地の差ってのはだいたい僅差で存在してると思う。

 
ありのままに

ふたつめのありのままに、というのはウケ路線に無理に合わせるのでなく、素の自分をさらけ出した方が結局人から好まれる、みたいな話。

けどこれはなかなか賛否両論ありそうだと思った。わたしの思ったのはそれは切り口&キャラクターの問題なのではないかな?ということ。バイキングの回でもあったけど設定はベタで、切り口をいろいろ考える、っていうのと似てることな気がして、切り口がひとつだとしてもその表現方法はたくさんあり、それをキャラクターとびったり合った時がケミストリーなんだと思った。

 

感情を載せて話す

感情を載せて話す…これはわたしは最近やっと出来るようになってきた。これは、自分のようなもともとホルモンの調子が悪い人間だと天気が良かろうが悪かろうが人が死のうがどうでもいい、と本気で考えてしまう場合があるのでそういうやり方を自分が常に出来るかと言ったらなかなか難しいなと思った。でも最近、思うのが「かわいい!」とか「うれしい!」みたいのって普通に泉の噴水みたいに湧き出てくる感情なんですよね。自分はそれがなかったから、正直どうでもいい時の自分は本当に常にダルいと感じていてそれをどうすることも出来なかったのだ。

営業が死ぬほど好き、とかならもしかすると出来るのかもしれない。

 

しかしわたしが終始ぼんやりとした不安を感じていたのが和牛の仕切りがうまいということだった。わたしからすると和牛はたった一回M-1で準優勝まで進んだくらいの駆け出し芸人なのだけど、それでもベシャリを仕事にしている人は違うのだろうか、天下のキリン相手に動じないしいちいち筋が通ったことを話す。しかも決して役割を踏み越えてイタい助言にまではかからない。落ち着いている…?!そう、わたしはそれまで芸人イコールイキっててしかも調子に乗りやすいバカだと感じていたのである。なんちゃって!青い人は後半、普通の講師みたいになっていた。芸人って皆、駆け出しだとしてもこんなもの??

・目を見て話す

・気圧されない

・相手のペースに飲まれない

これがコミュニケーション初心者は出来ない。特にペースとかは会って五分くらいで早々に相手に受け渡してしまう。わたしはこれを見てて、絶対に自分はベシャリの仕事は出来ない、って思った。和牛と何かがあったわけでもないのに、わたしが番組の終わりに感じていたのは何故か敗北感だった。

 

ドッキリについて手探りで考えた。

けっこう、水曜のダウンタウンをよく見ている。水曜のダウンタウンの出演者は独特で、なかなかそれはモニタリングやロンハーとも違っている気がする。「なにが」と言われてもパッとは答えられないけど、わたしもこの間ワッキーが出てるのを見て、「惜しいけど、違う」みたいな感覚があってだいたいそのファミリー層の区別がつくようになってきたと思う。モニタリングは二回くらいしか見たことがないんだけれどわたしはあれを真面目にやってるのか、ふざけてやっているのか把握しきれず意味不明な感触だったのを覚えている。何かかわいい小動物を、「ケーキだよ」って言ってあげた時人はどうするんだみたいな、見てもしょうもないようなものを延々とやっている。その後にある「よかったね」ってそりゃ喜ぶのそこにいるケーキ職人たちだけだろうがと思ったんだけどどうなんでしょうか。

 

ところでその、水曜ダウンタウンのファミリー層をわたしの独断で勝手に区別してみた。

 

ファミリー層

〜天国編〜

たむけん

大吉さん

バカリズム

サバンナ高橋

 

〜地獄編〜

クロちゃん

小宮

バイキング西村

小峠

春日

あかつさん

トニー

斉藤(ウザ〜い!の方)

 

〜ちょっと違う〜

庄司(純粋さに欠ける)

ペナルティワッキー(純粋さに欠ける(性的な方面))

フジモン(純粋さに欠ける)

 

 

「ちょっと違う」人達は別に特に賢いとも思えないんだけど、そういう問いをかけられた時純粋に勝ちを求めるのでなく「わたしは、賢い」と応えそうな感じがある。子供というものも歯の生え変わり時期に、純粋な夢から覚めて大人からどう見られるかを演出し始めるものだそうで、ある意味だからこういう人たちは目が覚め過ぎているんだと思う。

それはけっこう微妙な問題だったりして、たとえば男性だって女性を口説いている時に、自分がシャツに忍ばせたキーに生肉を狙うような目線を注がれていることに気付いたら「はっ!!」としてしまうものだと思う。ドッキリと現実というのはそういうスレスレの間に存在しているいわゆる、腐りかけの生ものなのだ。