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つぶやき、料理、日記など

『宇宙で二人きりごっこ』

好きな人と、くっ付いてるのも好きだけど、とくに意味もなく一緒にいたり、たわいの無い話を出来るのがしみじみと幸せだなあと思う。例えば休みの日に一緒にご飯食べたりとか、テレビ見たりとか。気が抜けてるけどまだ心許してないし、家族でもないぞみたいな感じでそういう事しているのが。今日もそんな感じで恋人と一緒にいた。外は雨が降っていて、世界の終わりみたいに真っ暗な土曜日の朝だった。私たちはテーブルを囲ってもくもくと食事をしていた。何度目の朝だろう。わたしはふと思い付きで言ってみた。「ねえ」「なに」「あのさー、宇宙で二人きりごっこしない?」「は?」「宇宙で二人きりごっこ」
「私たちは核戦争によって滅亡した地球を命からがら抜け出した地球最後の二人で、お互いまったく知らない縁もゆかりもない同士なのに、それから二人きりで死ぬまで一緒に過ごさなきゃならないっていう設定で一日過ごしてみない?」
そんなわけで私たちはそういう設定で一日を過ごすことになった。わたしは地球最後の朝食を台所に下げて洗い始めた。「ああ、なんだか」
「すごくしみじみと悲しくなってきた。生活を思い出すとこんな気持ちになるんだね」
彼はいつもと変わらずにゲームをし始めた。それからわたしは本を読み始めた。彼があまり乗り気じゃないようにも見えたけど、とにかくわたしはこの地球最後の雰囲気を壊したくなかった。
別々でいるのが詰まらなかったので、わたしはとりあえず近くに寄ってゲームの様子を見てみることにした。「いま、これはいい調子?」「うん」「あのね」「んっ?」
「寂しいな・・・」
「それは、宇宙で二人だけごっこの続き?」
「そう」
「お腹減ったな。ずっと何も食べていないし」
不意に思い出した。わたしが電車で部屋で沈黙が怖くてずっと一人でくっちゃべっていたせいで「話合わない」と言って振られた数年前のことを。ちらと恋人の顔を見ると、視線はゲームの方に注がれていた。
「おなかへった」
じいっという機械がバカみたいなことを話してる自分に警告するように聞こえてくる。だから、その次に聞こえる声が自分を救い出すたった一つの声みたいに思えてしまう。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。寂しい。悲しい。ずっとずっと一人でいるのは大変なことだよ」
「よしよし」
彼は、視線をゲームに注いだままでわたしの頭を撫でてくれた。わたしは恥ずかしくなった。それに、なんだか泣きそうになってしまった。けど喋り続けた。
「私たちは、いつ死ぬの?」
「僕たちは、一年後に死ぬよ。」
「え?どうして?」
「宇宙では、それほど人間は生きていかれないからだよ。」
「、、、、」
意外な設定にわたしは面食らう。殺伐としたゲームをしているからか、男だからか、世界観はシビアだ。「一年後僕らはしわくちゃになって死ぬよ。それが『宇宙時間』」
「、、、」
「泣いてるの?」「うん」
「かわいそうに。こんなに綺麗なのに、一年後にはもう君の去年死んだ婆さんと同じようになる。やるべきことをやってこなかったからだね。命がずっとあると思い込んで生きてた罰を皆が受けたんだね。でも死ぬときは一緒だよ」
恋人ははじめてわたしの方を見て言う。
「優しいね。どうしたの?」
「ごっこだから。会社ではもっと厳しいよ」
「あなたの顏は●●●みたい」
しーん
「恥ずかしがるなよ。君が言い出したのに」
そうだった。わたしはごっこを続けなくてはならないのだった。わたしが思ってたよりもずっと恋人は「ごっこ」するのがうまいようだ。ゲームばかりやっているからかもしれない。思い付きで始めた二人きりごっこはなかなか心地よかった。
「ねえ」
「ん?」
「私たちが死ぬまでに、たくさんもの食べよう。たくさん話をしよう。それからたくさん、セックスしよう。」
「うんいいよ。どうせ死ぬんやねんからな」
「わたしに何か特別な事してほしいと思う?サービス。例えば風俗でしか出来ないことだとか、料理いっぱい作ってもらうことだとか、面白いことやり続けて欲しいだとか」「うーーーーーーーーーー
ーーん」
どきどきしてわたしは待っていた。
「特にないかな」
「わたしに何かして欲しいことってないの?例えば踊るだとか」「うーーーーー
ーーん」
「特にないかな」
「じゃああなたってもしかして幸せなの?」「うーーーーー
ーん、たぶん」
わたしはほっとして恋人にくっ付いた。「嬉しいな。生き残ってくれててありがとう。」
「うん。どういたしまして」
「大変だった?いろいろ」
「、、、、、、」
宇宙で二人きりごっこはゲームが佳境に来るに連れてネタ切れになってきていた。
「お腹空いたな・・」「台所にバナナあったよ」
「ねえ」
「ん」
「地球から私たち抜け出してきたっていうことは、たぶん家族とも別れて、あと人殺したりとかもして来たんじゃない?」
さらなる展開を試みる私である。
「そうだね。僕はスナイパーだから。僕を雇うのは結構大変だったよ。俺は1499人は人を撃ち殺して来たから」
ふうん、と応える。ちがう、なんか違う。そういうんじゃなくて、もっと自分たちは天涯孤独なんだって気分を寄せ集めるような遊びをしたかったのに。
「人を殺すのって楽しい?」
「楽しい」
「うそ」
「楽しいよ。見て。」ゲームの画面を見る恋人。
「全部おれの得点」ニッコリと笑う。
「駄目だよ。人を殺したら」「憎悪渦巻く町では生も死もないよ。生は死と共にある。死は亡霊なんだ。ぼくは、自分が生きてるんだか死霊なんだかずっと分からなかった。人に会うまではずっと。人と会って話してるうちに、僕は人間なんだなって思い出す事が出来たんだ」
そうなのだ。舞台は核戦争の起きた町東京なのだった。
「私のことも殺すつもりある?」
「君は大事な子孫残すうつわだから。命よりも大切だよ」
「、、、、」
はあっとわたしはため息をついた。さっき、わたしがわんわん言ってたときは、昨日の夜よりもずっと暖かな空気が流れてたような気がしたのに。これじゃ恋人でも家族でもない。単なる用意されたつがいみたいだと思った。ごっこ遊びの中にいるわたしは、彼の内面を少しだけ見れたような気がした。それからちょっとだけ寂しくなった。
「あっ雨があがってる」
「本当だ」外を見るとかすかに光が差し込んで来る。空のずっと遠くには青空が広がっている。
「外へ行く?」「えー」
「行こうよ。」「うーんまあ」
「僕らって、他人だなあ」「、、、」
恋人は立ち上がる。「本当。」
「ねえ何かもし、寂しいって思ってるなら本当に外へ行こうよ。」「うん。」
「それから、一緒に映画見よう。本を選ぼう。音楽聞こう。僕も君もまったくちがう人間だから、一緒に何かしようよ。さっき君も言ってたじゃない。宇宙最後の生き残りの、縁もゆかりもない僕らが二人でいる意味がきっと何か見つかると思うよ」
「うん、そうだね」わたしも笑った。
宇宙で二人きりごっこはなかなかよかった。それからもする事がなくなるとわたしは特にスタートの合図もなくそれを始めたりしてみた。恋人も役をこなすのがなかなかうまかった。わたしはその舞台で子どもみたいになったり、友達みたいになったり、恋人を煮詰めたようなときの気分をうまい具合に食べ散らかしていった。それに、それをしたおかげで、恋人のことをより一層愛しいと思うようになった。

贈り物の哀しさと老いの哀しさといじらしさと惨めったらしさ

もう何度も書いてることだけど、買い物をすることは寂しいことだと思う。一人で買い物に行って必要なものを買っていくのは普通前向きな作業な気もするんだけど、他の人たちと一緒にするときのようにわいわい楽しさに紛れて自分の欲求とか寂しさを紛らわすこともできない。「ああわたし、これが欲しいんだ」とか、「ああわたしにもいよいよ、こんなものが必要なんだ」といちいち思わさる。生理ナプキン、バンドエイド、栄養ドリンク、週刊誌、友達と分け合うためのガム、ああ、なんか寂しさに息止められそうになって来る。1日を生きるごとに摂取する食べ物の量も、情報の量も膨大で、それに伴って捨てるもの、さようならするものも膨大である。「巣篭もり」したいみたいな願望もある。今日はいい天気で、一日中ひまで、自由で、体も元気で、これから出かけるんだけど掃除してみるか、って思って始める掃除の中に入り込んじゃうとやたらとハイになってくる。もっともっとあれもこれも必要だ!って思えてきて、そういうときは生とかへのパワーが全てプラスの方向へ働いてる時なのかもしれない。そういう気分に乗れたらいいけど、でもたいがいやっぱり買い物っていうのは寂しい。「生きてる」ってこと、それに伴うこんなにもいくつもある成仏されない行為、そういうものを例えば結婚式で発進するリムジンの、後ろに結び付けられたガラガラみたいに皆がくっ付けて歩いてるのが見えてしまう。笑って、笑って、もっと笑って欲しい。そうでないと寂しすぎてわたしは授業中なのにかかわらず一目散にトイレに駆け込む女子高生に戻ってしまいそうだ。
なんだかここには少し自然光が少な過ぎるんじゃないかと思えてくる。

 

 

六人の孫を持つ祖母はけん玉を六つ買う家に犬を待たせつ(この短歌を作った後でおさまんなくなって書いたブログです。何故私は毎日同じことばかり書いてるんでしょう。)

神経質すぎる

最近H◯◯(忘れた)とかいう名前の「繊細すぎていきるのがつらい人」というタイトルつけたる本がよく売り出されているようだけど、手にとってみてこれ、どういう人が買うのかなあと思っていた。なんていうかこういうナマエをつけることでまた新たなる商業の領域見つけたりみたいな感じでやってんのかなあと思う。わたしもいろいろ必要以上に気になってしまうたちなので読んでみたけど、でもこれを肯定してしまうと一歩も前へ進めないじゃないかと思ってしまうのだった。なんていうか「そうだね。そうだね。わかるよ。つらいよ」というのを必要としている時期もあった。でも今はそんなこと、あったとしても時は流れ続けているしやらなきゃならないことは常に生まれ続けているじゃん。立ち止まる時間にそういうの見るのなら「わかるよ」よりもっと「じゃあこうすればいい」まで書いてくれていないと嫌だと考えてしまう自分がいたのでその本に対してけっこうバカにしてる自分なんだなあと思った。繊細すぎるなんてよくわからない。わたしはすごくうるさい。いちいち引っかかる。ざわざわする。イライラする。なんかそれを抑えつけながら生きてる。繊細ていうより、すごくうるさい神経してるんだなあと思う。ハアハア!わかっちゃったわかっちゃった!聞いて聞いてー!!!と思いつつも、いやいや、だめでしょう。なんでだめ?だめだからだめ。今はだめ。明日は?明日はいいよ。ふむふむ…え?何故?理由はない。考えてみよ。みたいな感じでいる感じがある。そこにとりのこされた違和感だけが毎っ回一人どんどん積み上がってゆき、それにわたしはいつか殺されるか突き落とされると確信しているのである。それはちゃんとした裁量でもって潰しておかなかったわたしの油断によるのである。そういう不安があると思う。だから生きてて苦しいと思う。だからそういうことに対してすんなりと避けてくれたり、パッと答えを出したりしてくれる人がいると目の前が明るくなる感じがある。わたしの困るこまけーことに、もう何べんも先に考え倒してきたんだなっていう、ただ1つの「経験」から述べることや、それから差し伸べる手、あるいは立ち止まって聞いてくれること、ああ今書いてて気づいたけど、そういうのをわたしって必要としてたんだ。そういうことを誰とも話したりしないしヘラヘラしてしまうからあまり伝わりにくいなあと思う。やっぱり書くことだ。そうしないとその辺のことは世間と自分の表向きに埋まってしまって、いつもよくわからない。表面のわたしっていつもすごください。

岡井隆歌集から抜き出してみた

金冠が歯になじみゆく一日の折ふしに冴ゆかの学説は

 

一日の折ふしってのがあるような気がした。窓から光が射してるとき、昼間の静かな時間に一人でいるって気づいたとき。考えごとがなくなって立ち止まった時。そういう時に悩みが解決したような気がしたり、耳馴染みの悪かった言葉を噛み砕いたりすることが出来た気になる。あーそっか、時間も世界も本当はもっと広くて今わたしは「ここ」にいるのかって、何かから離れられた時なのかな。

朝の気分とか、夜の気分とか、ある。そういう歌もけっこうある。

 

つややかに思想に向きて開ききるまだおさなくて燃え易き耳

 

若いからだよ。っていう言い訳にすんなりいく感じがある。いろんなことに引っかかるし、勝手に怒ったり恥じらったりしてめんどくさい。それは他人も、自分も。でも若いんだし、ガンバって生きてるんだからなあー。「しゃあない」ってどこかで区切りつけれるのは、他人から何か言われたり、こうやって客観視されたときだったりする。「若いからだよ」ああやっぱり、どこかにまだ希望もあるよねって思う。

 

向日葵の太陽に向け開ききる問い疚しくなんかないさ生殖(作・tmtkkiy)

「開ききる」つながりで作った。向日葵っていう花が巨人のように見える夏だった。向日葵がが太陽に向かって咲いてるのって変な迫力があって、綺麗でもかわいいでもなくなんていうんだろう。生々しいし怖い。

 

 (勝手に挟んだ…勝手に…)

 

産みおうる一瞬母の四肢鳴りてあしたの丘のうらわかき楡

 

楡=ニレです。男である人の立場からの歌だなあと思って読んだ。男の子から見た母親と、わたしら女から見た父親はやっぱり違うのだろう。お産や結婚ていうのものは母親が一人の女性として生きてたのが親として生まれ変わらせた瞬間でもある。あとは単なる「産む」という働き。仮面、役割というのはそれにしても大きく、それを被る以前に会っていたら一人の人間対人間だったなあっていうような母親という認識に対する頼りなさを感じた。だから壊れそうに「鳴る」のかなと思う。いっぽう母親はなかなか壊れない。ただ目の前で老いて、あとは死ぬだけで。

男から見た女性とか母親って、俗世の感覚に染まってなければどんなんなんだろう。

 

荒れはててドラキュラ層の原のうへにイデオロギかる恋もするかな。

 

イデオロギーとは社会集団や社会的立場において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系。だそうです。コピペです。

正直意味はよくわかりません。けど「イデオロギかる」のような言葉を見て「あっこういうやり方でもいいんだ」って思った。抜く、っていうんでしょうか。

 

陰毛が白毛を織りてその白のかすかに褐を帯びつつなびく

 

「褐」がまたも分からなくて調べていたら笑ってしまった。あの感じか。しかし生きてるんだからこういう歌もある。あるに決まってると思う。テレビなんかできれいな着飾った女の人が出てたりするけどあれなんかはまるきり「ハレ」の舞台だからでみるぶんにはいいかもしれないけど常に常にそういうものを求められるとなると疲れる。

男の人は、デリカシーがない。汚い。いい加減で、やさしくない。子どもっぽい。「好き」と「都合がいい」と「気持ち良い」とかを全て混同してたりとかする。パトカー好きと、お前好きが一緒の熱量だったりして。でもそういう適度に抜いた世界があったほうがよく、女のコの方もそういうさじ加減を取り入れてもいんだなって思う。

 日本の女のコ文化ってのはなんて窮屈なんだろうとつくづく思う。「いい子」って思ってもらった後でやっとちょっとだけ話せるようになるっていう感じがある。そうしないともういっぱい矢が飛んできてしまう。くだらねー矢だけど、でも足を止めるには充分だ(何しろ数が多く怨念も深い)。

 

差別して生きる。差別されながら生きる。それもこまやかに差別し、されて

 

差別されたと感じるとき、けど自分も人を差別していることに気付く。人を評価することと、されることとは表裏一体で、そのループからは逃れられない。けどそれを分かっててもこれからも自分は思考する上で差別するんだと思う。だって思考は切り離すことが出来ないから。差別することが問題なのではなく、それを態度に出すことが問題なのだと思う。そういうなんていうか、こーじゃなきゃだめ、あーじゃなきゃ悪、のような白黒つけたい潔癖さは学生時代に卒業しておきたい。人間の内側なんて、つじつまが合うはずがない。

 

 こうやって見てみると、いい、いい、って言っておきながらも意味分かる短歌の方が少ないように思った。あと他にも「なんだこれは!」と思う短歌もあったんだけど普通に索引のない短歌集なので今日は見つけれなかった。

短歌で遊ぶ

相変わらず穂村弘さんの「短歌の友人」を読んでいて、面白い。けど未だに良い歌、良くない歌というのがあまりわからなかったりして、あとは話が高度過ぎて(といってもだいぶ読みやすい文章なのだろうが)頭が付いて行かなくなる。ってか、文章読まな過ぎなのかも。

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 

 



「秀歌」と言われても文語だったりすると何が何やらよくわからない。蝉の殻に昨夜の雨が溜まる、っていう歌、それから子どもが泣いて夕暮れが広がってる、みたいな歌は良いと思った。短歌一首を見ただけでパッと情景が浮かぶ感じがある。俵万智の歌はあまりに単純過ぎると感じてしまった。サラダ記念日なんかもそうだけど、素人目から見るとわかりやすくて良いのかもしれないけど。わたしはアマです。先の短歌だけど、セミの抜け殻の中にある水はコンクリの中の水のように人工物と自然物の組み合わせの違和感のような感じで印象的だと思う。

 

まだ読んでる途中だけど、中に書いてあったことなんだけど生きている中で見逃している情景、に付いて、「生き延びる」という生命の第一優先すべき目的のせいで、日常を過ごす僕たちは生きているという感覚や実際感を見逃している、というようなことが書いてあって、この間自分の考えていたことと同じだと思った。人間ていつも原因と結果を結びつけて考えるものだけど、それは単に人間の落とし所でしかなく、それ以上の余白というのは命という成り立ちである限りはどうしても生まれてくるもので、その余白をどう把握して生きていくのか、っていうのが文化だったり、迷信やお話だったりするのかもしれない。たとえば人は死ぬっていうこと一つにしても、私たちはなかなかそれを画一化することはできなく、人が一人いればそれぞれの死の形がある。なんか微妙に話が横道にずれてしまった。とにかく生きていると用事や明日や今日に囚われているので命の在りようを感じることなんて忘れている。「あ」って立ち止まる瞬間、自分の思考にとらわれるのでなく、取り巻く「世界」とそこに置かれている「自分」という命の存在、違和感、それを感じること、感じることになる発端、そういうのを短歌だったり小説が表してくれるのかなあと思う。それがベンチの上に置かれた梅干しのタネだったり、恋人の鼻毛だったりするのかもしれないと思う。やっぱり「え、どこがいいの」っていう歌はある。まあそれは個々人の感性なのかもしれない。穂村さんのいう表現で「棒立ち」というのがあった。短歌を作る上でなにもひねらず、ただ単に普通の文章として流すような短歌をそう表現していたんだけどなるほどなあと思った。これを、技巧ある人がすると一周回って良しとなるのかもしれないが、素人では経験も技巧もないのでなかなか難しいと思う。棒立ちでも技巧であっても、世界観を持っているというのは強い。わたしもスピッツの世界観に触れたくて、トリイの世界観に触れたくてCDに本に手を伸ばす。

そうだ、「言葉を軽く握る」なんて表現の意味わかりますか?わたしはこれを聞いて「な、なんだそりゃ!」と興奮してしまいました。言葉を軽く握る、っていうのは創作意欲である「イメージ」を保ったまま、それを排出する手段としての「言葉」のほうを置き換え、イメージを崩さないで短歌の枠組みの中でそれをおどらせるような感じのことなんだらしい。なんとなくわたしは「ピボットターン」のように感じました。
短歌を作ったことのある人ならわかると思うけど文字数制限があったり音のバランスとか考えるうち「ここ、なんの言葉はいるのよ」ってなるけど、あれこれ変えてったら初めとは全くべつの歌になってることがある。わたしの場合は台所で餅ついてる程度なんだけどさ、しかしそういう葛藤っていうか皆の身に起こることをしかも解決する手段とともにぴったりの言葉で表現されると本当に興奮する。神か?!?!穂村さんは以前別の対談本でも「予感」のことを、「行動する前から匂いのようなものが先に立ってくる感覚」(ていうようなかんじ)と表現していてげげえー!と思ったことがある。遂行した文章ならまだしも、対談中にぽんぽんとこんな表現がでてくるんだからおそろしい。頭のいい人ってのは私たちの別次元にいるんだなあと思う。

何故もっと若い子達は穂村、穂村って騒がないんだろう。

 

まあとにかくそんな感じで、いつか穂村さん選のところに自分の作った短歌送ったりして何か言われたいなあって思う。いつか、いつか。

 

 

秘密と友情(新潮文庫)

秘密と友情(新潮文庫)

 

 

 

短歌の目8月振り返り

短歌が楽しくて、短歌のことばかり最近は考えています。穂村弘さんの本も二冊Amazonで注文してしまった。

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 

 

 「ぼくの短歌ノート」と「シンジケート」は持っている。シンジケートは何処か行ってしまって手元にありません。

穂村さんは、エッセイはへらへらしているのに短歌や物事を論評するときなどの切れ味がすごくてため息がでるほど。こういう「ふわっと」した物事にもちゃんとした論がある。で、それを言い尽くせてる感がすばらしい。(というか、それ以外の短歌人を知らない…)

ハマってみて、いろいろと本を探してみたんだけど「初心者入門」「初めての短歌」みたいのがけっこうあった。多分こういうのを趣味にする人は多いんだろうなと思う。

 

短歌の面白みは返歌だったり、テーマを決めてそれぞれにやるっていうところなのかもしれない。けどそういう本気のやつをやったことはない。いつかやってみたい。短歌友達が欲しい。短歌の良いところは、ねちねちした批判になりにくいところもある。すごいなあ、っていうのに「でも俺のもすごいよ」で返すしかない。だからそういうのが続いてくのがいい。他人の言語感覚を見てるのが楽しい。何もすることがない時に、短歌のアプリでぼーっと見てるのが楽しい。もちろん作るのも楽しい。ふざけて作るのも楽しい。頭の中に情景を、うまいこと言葉に変えて書こうとする。その変換がパズルやっているみたいで楽しい。計算や数を数えるのは不得意なんだけど、こういうのはいつまでもやってられる。で、それがうまく当てはまったとき、うまく並べ替えられたとき、なんていうかスッキリします。あたしの短歌、整いました!!!

 (しーん…

 

 

8月題詠 5首振り返りです。

1. 流

流れつつとび潜り死ぬとびうおは元旦の日にとびうおになる

 

→今日、感情について考えているときに、とびうおが唐突に思い浮かんだ。跳ねたり潜ったり、勝手にする。それを短歌にいれてみた。

ところで「流れる」みたいな動詞を短歌に入れるってなかなか難しいと思う。(流木、とかでもよかったのかな)元旦の日にっていうのに意味はなくて飛び魚と知覚する人間がいることで飛び魚は飛び魚として存在してるんだなという考えを書いてみた。


2. 囃

遠くから聞こえることで有名な祭囃子のその中にいる

 

→囃子っていうととおくから聞こえてくるとか、だんだんと知覚されてるって表現する人が多いのかな?と思いつつ、詠んだ。火や水の中にいるときは「火だーっ!」「水だーっ!」くらいしか知覚されないんじゃないだろうか。


3. フラット

「感情をフラットにせよ」と繰り返す機器にこの度辞令を申す

 

→フラットって聞くとその前の上がり下がりをイメージしてしまう。それ以外何も思い浮かばない。感情のフラットって何?どんなの?そういうことを言うのはきっと機械くらいだろう。きっと人の気も知らないで、ねえ。


4. 西瓜

とくべつな西瓜をあの日買い求め類似品のみ売り場に並ぶ

 

→西瓜っていうと夏。でも今ははっきりいっていつでも買えるし、別に高くもない。子どもの頃はいつも与えられていたものだ。

でも自分が買うようになって、それは特別な西瓜になった。仕事を初めて、車を運転して、西瓜一つを余らせないよう思考を巡らせてから買ったスイカは特別な西瓜だ。


5. こめかみ

こめかみに特殊なツボがあると言う林修が生きながらえる

 

→こめかみっていうと横顔なのかなと思った。横顔を見つめるというと恋人か、片思いか何かかな?でも何も思い浮かばなくて、今日何度も聞いた「林修」について遊んでやろうと思った。

 

テーマ詠「怪談短歌」

 「よく考えるとぞっとする情景」とのことだったので、パッと思い浮かんだのは→

乗用車後部座席のぬいぐるみ名前を羅列しているおばさん

 何故か、車の後ろ(ダッシュボードっていうんだっけ?)にぬいぐるみをぎゅうぎゅうにしているのが浮かんだ。あれって一体何のためなんだろう、みたいな出来事って世の中にけっこうあって、しかも局所発生的に存在する。後ろ、見えないし、ぬいぐるみを抱いてていいのは子どもだけだし、だからけっこうな年になっても自分がどう見えるかを考えないで行動している年の取り方にぞっとする。そういうのは普段まともに見えるような人であっても、チラチラとこぼれ落ちるかのように露呈する。

私はいつかテレビで見た猿のオムツを替えている浅香光代にぞおっとしたことがある。その辺の意味も入っている。

 

「誰も見ていない」とゆるむ筋肉が一瞬にしてかたまるその時

その時私は足の皮を剥くのに夢中になっていた。だから作った短歌である。 

 

「八たす八」と聞かれ答ふる幼な子の「いちたすいちたすいちたすいち…」

 この間あった、「かわゆい!」と思った話。おいおい、それじゃあ終わるまで一体どれだけかかってしまうんだい、と思った。自分が子供の頃にも「100たす20=10020円」みたく書いてしまったことがあって、兄妹に「え、そんなにくれるの?!ありがとー!」って返されたことを覚えている。なんにもなんにも知らないで生きている。

 

はてな題詠「短歌の目」8月に参加しました。

短歌の目8月のお題です - はてな題詠「短歌の目」

 

短歌の目8月にギリギリで参加させていただきます。気付いたら全て「主語+動詞」になっていました。普通ですね本当。普通でしかない。

 

よろしくお願いします。

 

1. 流
流れつつとび潜り死ぬとびうおは元旦の日にとびうおになる

 

2.囃

 遠くから聞こえることで有名な祭囃子のその中にいる

 

3.フラット

「感情をフラットにせよ」と繰り返す機器にこの度辞令を申す

 

 4. 西瓜
とくべつな西瓜をあの日買い求め類似品のみ売り場に並ぶ

 

 5. こめかみ
こめかみに特殊なツボがあると言う林修が生きながらえる

 

 テーマ詠・「怪談短歌」

 乗用車後部座席のぬいぐるみ名前を羅列しているおばさん

 

「誰も見ていない」とゆるむ筋肉が一瞬にしてかたまるその時

 

「八たす八」と聞かれ答ふる幼な子の「いちたすいちたすいちたすいち…」