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つぶやき、料理、日記など

バナナケーキを作った

昨日は久しぶりのお休みだったのでスイーツでも作ろうと思い立ちました。作ろうと思ったのは、家にある牛乳とゼラチンを使ったミルクゼリー。そこに買っておいたみかんの缶詰を入れようと思ってたんだけど、ふと下を見てみると台所の床に、熟れきって黒ずんだモンキーバナナが置いてあるではないか。普段なんの考えもなしに生きているモードのときはそのまま丸ごとゴミ箱にぶちこみ「全て無かったこと」にするくらいいい加減な私だけれど、今日はちゃんと使ってみることにした。

モンキーバナナとホットケーキミックスを使ってバナナケーキを作ることにしました。一応夕食も並行して作ります。

まずは、バナナを全てむいてボウルに入れる。

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あと、ホットケーキミックス、牛乳、卵を混ぜる。

 

ホットケーキミックス250g

牛乳100g

卵2個

バター大さじ1.5

サラダ油大さじ2

 

くらいな感じで入れてみた。勘です。これは。モンキーバナナ剥いてみて思ったのは普通のバナナよりも黄色いということ。あとはタネが目立つな〜ってこと。

 

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クッキングペーパーを敷いたフライパンで焼きました。弱火で15分。

 

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膨らんできたよ。

 

 

しかし!ポップコーンの焼けるような匂いがしてきたので不安を感じ、フタを開けて見てみると案の定、というか思っていた以上に

f:id:tmtkkiy:20170705205816j:image丸焦げ!!

 

 

失敗しました!

でも、パン切り包丁で焦げ部分をカットして事無きを得ました。焦げてたのは表面だけだった。ポップコーンの匂いの正体は「焦げ」だったんだあ…みたいな

 

しっとりしたケーキになってほしかったので、ちょいあったかいくらいなうちからサランラップで包み込みました。

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この辺に来るとお菓子に対する「愛」が生まれて来る。あったかくて柔らかくて、毛布みたいでかわいいやんな〜おまえはな〜

 

 

で、完成で〜す

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食べて見た感想→ちょっと甘さが足りないかんじだった。ハチミツとか入れてみてもよかったかも。市販のホットケーキミックスにもじゅうぶん砂糖は入っていると思うんだけど、スイーツとして食べてみるとなんだか物足りなく思えるのである。いや、もしかするとモンキーバナナというもの自体普通のバナナより甘くないのかも。以前作ったバナナケーキはもうちょい甘かった気がする。朝ごはんとかにはいいかもしれません。

 

冷やして食べると美味しそうと思ったので冷蔵庫に入れておきました。次の日食べたらしっとり冷たくておいしかった!

持たザル

今日はイオンに行って買い物をして来た。車が壊れていてずーっとイオンなしの生活をしていて、それでもとくにもんだいはないと思っていたんだけど久しぶりにイオンへ行くと水を得た魚みたいに体がぱ〜ってなっていく感じがあった。なにもかもがそこで揃うし済ませられるっていうのがこんなにも便利なのかって思う。街よりもずっと便利じゃないの?と街を知らないネズミのように思う・・最初に入った店がsweatってていう雑貨プラス服みたいな店があったんだけどあるものが全部可愛くて「うわあ〜」って感じになってしまってそこから出られなくなった。ネックレスとかもそうだけど服って、街をあちこち練り歩いてもいいものが一つもない時はないのに、ある時は把握できなくなるくらいにあったりして今日もそんな感じだった。わたしのうろつきを見ていた店員さんが「服、お預かりしますか?」って声を掛けて来てけれたのでけっこう嬉しかった。雑貨を見ている間蔑まれている感覚が少なからずある35歳なのである。そのあと(服2着預かってもらった後)も雑貨やら服やら買った。Tシャツはサイズがでかすぎるのしかなかったけど、普通のトップス(っていうの?)はかわいいのばっかりでしかも値下げしていたから三着買った。

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どうやって着ればいいか分からないけどロング丈のTシャツを買った。

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ちょっと力をいれただけで引きちぎれそうなくらい繊細なデザインのネックレス。

かわいいでしょ?(ほほほ

 

結論からいえばイオンでの買い物は結局そこでの八割くらいだったのだけどその後も無印良品→カルディ→ヴィレッジヴァンガードに入ったあとその森から抜け出せなくなってしまった。

 

無印良品はでも筆ペンがほしいなあって思ったくらい。12色筆ペンとか…何なの?ほしい。「けど、何に使うの?」っていう問いに「年賀状」くらいしか出てこない感じがしたから買わなかった。この間無印で見たくてくての帽子(5000ウン円)は三十パーオフ以下にならなければさすがに買いたくない。結局は話題になっていたしゃもじとピーチのタブレットを買った。家に帰ってから食べたら美味しかった。無印良品はレトルト食品もいいんだけどその後入ったカルディとかと比べるとやっぱりちょっと高い。飲料とかもわけわからないのが揃っていてそそられるが買わなかった。そーだ、無印の子供服が意外と可愛かったから、ギフトとかにもいいのかもしれない。キュロットとかも手作り風なレトロな感じでかわいらしい。可愛らしくツボをついているものを見たとき「きゅんっ!」みたいなリアクションを取りたくなってしまう。絶対やらないけど、でも毎回「きゅんっ!」ってなってしまう。

そのご、カルディで紅茶とかチーズ買いたかったんだけど「どうせ一週間後には全てなくなる」となぜか急に思い始めたので何も買わないで出てきた。カルディで買ったものってのは結局生活には必要のない嗜好品100パーで塗りつぶされたものでしかないのだと思う。むかしTwitterでみつばっていう人が「カルディでうろつく女のケツに浣腸」みたいな下品なことを呟いていたんだけどなんとなくそのもやもやを理解できるような感覚が自分にもあり、その感情をなんと言うのか教えてほしいと思う。ヴィレッジに関してはいっつも寄ってはいるけど欲しいって思うものがほぼない店だと思ってたんだけど品揃えがちょっと変わったのか店舗によるものなのかわかんないけど欲しいものがいっぱいあってたのしかった。しば犬グッズとか置きます?普通。しば犬のクッションが圧縮された状態で置いてあったのでフリーズドライの野菜を初めて見たときのような気分になった。そこでイヤリングを買った。三百五十円のイヤリングをするのってどうなんだろうって思いながら買った。

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「kids」?

けど最近ネットニュースとか見ていても「プチプラ」みたいな流れがあったりするから今はそんな感じなのかしら。自分の来ていた服も今日は上千円下千五百円カバンは中古、みたいな感じだったんだけど貧乏性な自分からするとプチプラの流れは良いなあと思う。プチプラのものってなんていうか変なかわいさがあると思う。雑貨の延長とか、あとは「わたしが探してわたしが見つけてきた」みたいな愛に近いものがあるかもしれない。ヴィレッジで見かけたちょっとゴツメな携帯ケースが欲しくて、でもサンプルになっているやつの色が無かったので若い店員さんに「このサンプル品売ってもらえませんか」って聞いたら普通に断られて「でも絶対本当にダメな理由ないですよね」と思ったけどそれに従うしかなかった。あとでネットで調べたけどどうしても出てこない。こういうのってびびっと来るものが定期的に現れてそれを逃すともうまたしばらく出てこないんだよな。携帯ケースっていうものはそもそも高すぎる。三千円って、服買えるじゃん。でも少なくとも半年は使うと考えると別にいいのかな。
そんな感じだった。そのあと何故か行った公園で学生たちが野球をしていた。自分から見たら中学生も高校生も区別が付かないのだと思う。高校生だと思って見ていたら中学生だった。わたしはその前を通り過ぎて公園のトイレでウンコをした。その後ベンチで座ろうかってことになって広場へ行ったらあぶれた学生かわからないけどカップルの中高生(不明)がいて、なんかよくわからないけどムカつくなあと思っていた。ああいう頃って別に特に話題がなくってもものがなくっても、単に二人で居られるだけで幸せなんだよね、って思った。二人は別に普通にクラスで一緒になっただけなのに勝手に通じ合うものがあって、何もしなくても勝手に恋みたいなものが芽生えてきたんだろうなあと考えていたらけっこう腹がたつなと思った。どうして単に幸せそうなだけのカップルに腹が立つのか考えたりしてみた。それは、自分が何も持って居ないからなのだと思った。

出したの、お前だろ

今日仕事をしているとき、不意に素の自分が出てくることがあった。仕事場では、っていうか外では、自分が対峙しているのが「ひと様」という認識があるから、とくにに猫を被ってたり必要以上にへりくだったりしている意識があるというわけでもないのだけど、けどそういう理由から自然と背中がぴしっとしてしまう感じがある。だからわたしの外でのアイデンティティは「真面目で大人しい人間」であると思う。人畜無害、いてもいなくてもいい、でも「やなやつ」ではないよねー・・だと思う。多分。だから人に声かけるときもお母さんが電話にでるときくらいちょっと高めになっているし、返事も「はいっ」て答えてる。それなのに今日不意に、身内でいつも使っている「ハア?」っていう返事が口をついて出てしまうことがあってまじでギョッとしてしまった。その場では雷をうけたかのごとくショックをうけたあとで笑って誤魔化したんだけど、あの時のわたしの気持ち、なんだか正装して行ったパーティの場でバッグを開けたら小汚い靴下がごっそり出てきたみたいな気分で全然笑えなかった。てゆうか、笑いになってるんならいい。「うわっっ、、」ってちょっと思われただろうなあ・・。

 

何だかそんなことがあって、自分のなかの「なか」「そと」の自意識、知らないうちにこんなに区別をつけていたんだなーってことに気付かされて、やましいところがあるわけでもないんだけど、真実が突拍子もなく生まれ出たかのように自分が汚い人間であるように感じられてきた。そうだ、外でこんなにカッコつけていてもわたしは家では単なるオッさんじゃなかったか。とにかくそれくらい油断していた「ハア?」だった。ちなみにこれはクソ忙しいのに声を掛けられた時などに、細かいことを考えるのも面倒くさいのだがとにかくもう一度言う気があるなら言ってみろ、みたいな、発言すべてを一網打尽とするような「ハア?」である。

 

しかし素とか外ヅラとかいうけど皆それをどのように意識してるんだろう。わたしは他人からするとなかなか猫を被ってるように見えているらしく、けどもともとからしてあまり発言を要としない性分なのであるから親しい人からも「しゃべれ」みたいなことをよく言われる。その人たちに言いたいのだけど、わたしだって目の前にいるのがお前ではなく気の合う人間相手とだったらもっともっと喋るのである。「ただ」・・・まあいいや。で、学生のころののバイト場でも「もっと素をだしてみて。わたしたちも普段から素でやっているから」と呼び水とともにうながされたことがあったんだけど、その時は正直いって「何をいってるんだこいつは」という感想しか抱かなかった。
普通に、家と外は別モノだと思う。わたしだって家では鼻くそだって掘るし足も常に百三十度ぐらい開いた状態でもいる。それが一番心地いいからだ。素ってのはつまりそれだ。「他人の目」を視点に置いてない状態である。私も気を抜いているときはうるさいものに「うっせー」というし、かわいいものに「かわゆいんかわゆいん」ってしたりしているがそれを外の人に見せるわけになんかはいかない。そのことを当たり前としか思えない。そもそも素でいるひと、素がいいと思っている人に対して「この人、気持ちのいい人だなー」って思ったことなんてのは一度たりともなく、そういう人間てのはこっち側の調・不調に関わらずいつでも・どこでも・朝から晩まで・勝手に怒ったり悲しんだり喜んだりほぼ気分で行動するしあげく自分の話しかしないし、つまるところ突き詰めれば周りの我慢の上にあぐらをかいて生きているようにしか見えなかったのだった。
そう言う自分は母親にすら素で接したりなんてしない。もしも素で接しようもんなら話の半分以上を聞き流してマンガを読んでるか昼寝をしていると思う。っていつか、ここまで書いててなんだか分からなくなってきた。「なんなの?素って?」素って自由な状態のこと?本当のじぶんのこと?・・・・・

・・・・・

 


まあそんなこんなで、自分のわがままを出せる場、それを許してもらえる場なんてのは家族以外にそうそうないはずだと私は思ってしまう。そもそも仕事場で素を出す必要なんてあるのだろうか。

自分と他人の区別

朝から夕方くらいまでなんとか我慢を重ねて働いていてもよくわからない時にとくに何もないきっかけで爆発して周りの人を困らせてしまうことがある。ああいうときに自分の頭の中身がどうなっているのかわからなくて、「ああ、せっかくここまで良い子でうまくできていたのに」という意識もろともそれが崩れ去っていくもので、後の方は半ばやけくそ気味になっている。とくに気持ちのいいものでもなく。そう考えると自分の意思なんてものもともとなくって、自分もある場所のスピーカーでしかないのかもなあと思ったりする。頭の中に見えているのはなんらかのイメージで、それがどこにつながっていくのかなんてことを私は知らない。生かされていることを時々はつまらないと思う。私が私でしかいられないままに残していったものなんてただの一つもなかったような気にさせられる。もしもあるんだとしたら人との繋がりだろうか。
今日、アメトークの昔のDVDを借りて見てたんだけどそこにあったガラケー芸人ってやつ、見た記憶があるんだけどまた借りてしまった。なんていうか自分はずぶなおじさんが好きなようでサンドウィッチマンのやりとりを見たかったみたいだ。サバンナの高橋はトークも上手いんだろうけどなかなか好きになれない。目つきが私を不安にさせるのである。この人怒ると怖いなあって思う。怒っても怖くないっていうのはああ、怒ってるなあ、けど本当に壊れそうだから怒ってるんじゃないなあっていう感覚がある。まあ一個人の印象なので誰も気にしないでください。

それ見ていて思ったんだけどしかし「ガラケーガラパゴス」って言い方はすごいなと思った。ガラケーに対して失礼極まるし、その言い方が皮肉から来たにしても元は最新の文化だったはずなのにね。携帯電話の進化はすごい。わたしの中学生の頃はポケベルだったのに、、、。
スマホにしても今やあって当然でネットニュースやなんかのSNSサイトをちょっとしたすきま時間に見たりするのももうあたりまえになっている。昔はマンガ、新聞、テレビ、本がおもな情報源だったんだよな。そう考えるとスマホはあまりにも自分たちに近い存在なのかもしれないなあと思う。なんていうか道具的に。親指とつながっているその世界・・・それは鍵を開けなくてもいいしドアを開けなくてもいいぶん、新聞より本より何よりもどうしても近いように思えてしまって、そのわりに人のずっと奥の方に簡単にリンクしてしまえるのだ。他人の思考がそこまで近い距離で常に自分の傍らにあるということに人間は支障をきたすんだろうなと思うことが最近はあって、なぜかと言うと無記名のそれを見ているうちに、その気分、感情、意見が誰のものなのかわからなくなってくるからだった。何故なんだろう。人っていうのは他人の感情の発散をいつまでも黙って聞かされ続けられる器なのではなくって、いつかそれに対して線引きが必要になってくるみたいだ。そうでないと引っ張られ反発がおき中身ががごしゃごしゃしてくる。自分はそうなんだけどなかなか感情の発散てのが上手くないみたいである。それの意味ってなんなの?ただ一人だけ気持ちよくなりたいってなんなの?その天秤が。けどそれに当たってある最中なんかもー本当胸のむかつきやらイライラやらが酷くなって来たのを、言葉に表して「ここからここまでが自分、その先はあなた」と分けることでやっとの事で正常を保てるようになるなあと思った。
もしかするとそういうのも人間の器っていうものがあったりして、やっぱ自分はすぐ悪くなりすぎるように思う。「いいよ」って言えないもんなあ。すぐには。理由が必要だし少なくとも他人に説明できるようなものがないとなんとなく飲み込みづらく気持ち悪い。
という感じでスマホを傍らに抱えるようになった人類はやたらと騒がしくなるのかなあなんて思ったりした。次から次へと入ってくるものをかき分けてかなきゃならない。情報という形ならばいい。当たりやすいのは人の感情である。

 

こんなこと考えているんだよ、そんなことを言葉にし、伝えたり、書き綴るのは決して悪いことじゃないと思う。そうしなければ正常ではいられないからである。

服を着た猿

ファッションについて

 

ファッションに対して「面倒くさい」という考えをずっと持っていたから、それを意識するようになったのは必要に迫られてからだったと思う。ファッションが面倒だなあって思うのはそれが一つだけでは決まらないってとこにある。靴だけ買っても上がダサければなにも変わらない。上を買っても下が古いまんまだとだめ。ファッションが決まってても髪の毛がダサければだめ。雑誌に載っているひともしくは街を歩いてるようなまともに見える人になるまでの「トータルコーディネート」という道のりがあまりに遠すぎて、それを考えただけでおしゃれ初心者というのは「超〜〜めんどくせえ〜〜」ってなってしまうのである。ある意味短絡的だともいえる。けど全部揃えてくださいって店員に頼めるほどの度胸もない。あーだこーだ考えたあげく「ま、いっか」ってなって結局せっかくある10000円でゲームソフトを買ってしまったりするのである。

恥ずかしながら自分にその必要性がうまれたのは大学に入った頃だった気がする。大学に入ると制服というものを着なくなるので、毎日自分で買ったものを着なくてはならない。あの頃のことを思い出すといまでも胸のあたりが苦しくなってくる。どう考えてもサイズの合わないジャケットを着ているのに、店の人から「ジャケットでシックに決められてるようですし(この香水いかがですか?)」と言われてそれがお世辞なのか、本意なのかすら分からなかった自分は滅茶苦茶に世間から舐められる存在だったんだと思う。私立の高校受験の時にものすごい分厚いパーカーを着ていった。箪笥に埋まってたやつである。わたしが席に座って参考書を見ていたとき話しかけてきた幼馴染の子を久しぶりに見るとハイヒールとタイトスカートに化粧ばっちりという出で立ちだったから私は私自身に対してけっこう恥ずかしくなってしまった。海と間違えて銭湯にきてしまったかのような・・その事をあの時着ぶくれて汗ばんでいた記憶と共に思い出すのである。

 

二度目のファッション改革は彼氏が出来たときだった。あの時、「新しく買った服を彼氏の前で着るということ」すらも何故か物凄く恥ずかしくて、だから新しいジャケットを着られなくてずっとぬいだままで脇に抱えて歩いていたから別れ際に「どうしてそれ、着ないの?」と意地悪でもなんでもなく素で聞かれて「あ、、あ、う、」みたいな感じになってしまった。いま考えても本当に意味がわからない。それでも会うたびに私たちはやりまくっていた。

 

その後社会人になってからはだんだんとわたしにもおしゃれの網の目が見えるようになって来た。1たす1は2、2ひく1は1、そういう単純なルールみたいなものである。社会人になってからわたしは目覚めたのである。目覚めたわたしは5〜7センチくらいのヒールがついたブーツを履いて毎朝通勤していた。スカートも着こなすようになった。コートには丈があって自分にどういうのが似合うのかという視点をやっと持つようになった。鞄をたくさん買った。ひとつ軌道に乗り始めると爪の先にまで神経が行き渡るようになってきたので、空いた時間にマニキュアを塗ったりもしていた。わたしは「男の目」というのを意識するようになり、だから髪の毛のヘアゴムで可愛く見えるように髪を結ったりとかもした。褒めてもらえると嬉しかった。

 

カジュアルに対する憧れのようなもの

 

その後またどうでも良くなった時期とか色々とあるんだけど、それ以外にわたしの中で自分のファッションうんぬんっていうよりも単に可愛いものを見たい、という欲求があって、その目線で他人や人形の服を見たりする時期があった。いまでも不思議なのはその目線と自分のファッションへの目線がどうにも交わらないっていうところで、だから自分自身はボロボロのスエットを着ながらそういうものを眺め続けたりしてしまうことが結構ある。その頃何故かわからないけど購読していたのが「ELLE GIRL」という外国のティーン向けみたいなファッション雑誌で、本当によくわからないんだけど近所の書店には売ってないためわざわざコンビニ受け取りで買ったりまでしていた。なぜ?一応いっておくがそれを自分に生かすとかじゃない。別に目の保養とか言うつもりもない。おしゃれに気を使いたいとかでもない。雑貨好きという精神の延長にそれがあるような気がする。そしてそういうことしていると困ったことに自分のことは何が似合うのかよく分からないのに他人のことだと「もっとこうすればいいのに」とかが「スッ」とうかんできてしまうのである。

そこに載ってるファッションはカジュアルなテイストでそれをお人形みたいな外国の子がそれぞれの個性で着こなしているのが可愛いと思っていた。あと海外セレブのゴシップもけっこう載っていたけどあまりに関係無さすぎておとぎ話のようで面白かった。

その時から十年くらいは経った。今はもうその雑誌を読むこともないし、漠然と着たいものを選んで生活していたのだけど、この間スポーツ店に行った時ジャージみたいなウインドブレーカーが三割引で売っていたのを見つけた。そこにはスポーツ衣料やユニフォームだけでなく普段着れそうな白いプリントなしTシャツも見つけた。普通の服屋だと店でみるときはかわいいのに自分が着ると形が結局ダサくみえるのだったりするんだけど、なんていうか形が考慮されているように見えた。ここにはこんなに自分の好きなものが、掘り出し物同然の値段で埋まっているのか・・・そう思うとワックワクしてしまっている自分がそこにいた。ウインドブレーカー他人が着てるのを見るといつも「いいな」って思っていたけど、どう着こなすのかよく分からなかったのでン十年くらい買っていなかった。しかしどうということはない。単に羽織ればいいのである。

 

で、そのスポーツ店でけっこう充実感をえてる時に私はやっと昔購読していた「エルガール」の存在を思い出したのだった。あっそうか・・・!やっぱり自分は見るのもだけど、着るのもカジュアルが好きなんだ・・!って気がついたのだった。自分はカジュアルが好きだし、それを着ることに別にためらう必要なんてないのだ。安い、プリントがない、目立たない、そういうのが好きなのだ。コンサバとか、大人おしゃれとか、当時流行ってたエビちゃんみたいなモテファッションもあるけど、そんなんでなく、それは突き詰めるとパーカー、ジャージ、ジーンズ、青味がかった服、あるいは黄色、絶対に白黒、そういうテイストである。
(自分の中のカジュアル感2017年)

普段ボーダーばかり買ってしまうけれどそれがおちつくから着てるのだ。それはカジュアルだからなんだ。スニーカーも(以下同文)そう考えると今まで自分のそういうせこいあるいはみみっちく思えていた癖みたいのも「カジュアル」でもって内包できた感じがして気持ちが軽くなってきたのだった。あとはカジュアルだとスタイルが良くなくてもまあ大抵似合うっていうのもあるかもしれない。とにかく私は自分のファッションの落とし所を遠回りしてやっとそういうふうに見つけたのだった。

死ね

鉄腕DASHに夢中になる

ジビエ

日曜日にやってる鉄腕DASHがけっこう面白くて毎週のように見ている。番組の内容はほぼほぼDIYで、無人島で暮らしをするための道具作りだとか食材を集めて料理をしたり、栽培みたいなことをよくやっている。今日はカミツキガメを捌いてイタリアンとして調理するっていうテーマでやっていたんだけどこれがおもしろくて、かなりのめり込んで見ている自分に気が付いて「はっ」としてしまった。いま周りの人はそれ程騒いでいないのに自分だけがカミツキガメに興奮して喋くりまくっていた。いままで野球の観戦やドラマ、アイドルの歌番組などにきゃいきゃいなってしまってるミーハーおばさんを冷ややかな目でいたのに、いま自分は、カミツキガメとそれに相対した人間の「面白み」に対して素直に笑い驚き、一人で突っ込みを入れていた。三十代後半、ほぼ独り身の自分がテレビに真面目にのめり込んでいることを自覚したとき、なんだかちょっとだけさびしくなったのだった。

 

 

カニ釣りの思い出 

鉄腕DASHを観ていると自分が子供の時に虫取りをしたり秘密基地みたいなものを作ったりしていたことを思い出してしまう。昔日常的によくやったのは空き地に虫取り網を持って行きトンボやバッタを捕まえることだけど、両親、というか母親がけっこうこういうのを推奨してくれていたのでカニを採りに行ったり潮干狩りに行ったりとか、いろいろな所へ連れて行ってくれた思い出がある。

カニ取りは岩の間に隠れている小さなカニを珍味をくくりつけた針金で釣る、っていうやつで、とった後食べるわけでもなく単にキャッチアンドリリースするっていう遊びである。海の岩場にはでかいフナムシがたくさんいてそれはそれはきもちがわるかったのに、私と姉はそれでも夢中になってカニを取り続けたのである。

カニを採るコツは、捕獲しているうちに掴めてくる。針金の先に付いた餌を、岩の間のカニが隠れていそうな場所で行ったり来たりさせてみる。その匂いにつられたカニが姿を見せるので、カニが岩場から離れるのをじっと待つ。ここで気をつけなければならないのが、すぐにエサに食いつかせるのではだめということである。このタイミングで食い付いたとしてもカニはその重みと岩場へのしがみ付きでなかなか釣り上げることは出来ない。釣り上げるためにはまずカニが岩場から十分に離れること、そうしてエサにがっちり食いついたっていうタイミングでハリガネを水上へあげることだった。いったんそのこつが掴めると、カニは面白いくらいに連れた。二匹同時にかかったりとかもした。けどそんな風に最善を尽くしたとしても逃げられることもけっこうあった。外遊びっていうのはこういうのが面白いんである。タイミングがなかなか難しいこと、またカニがどこに潜んでいるか分からないこと、そうこうしているうちにフナムシが足元に近づいてくる恐れもある、ていうスリルでけっこう夢中になってカニを釣っていた。

 

カニ釣りのことを大人になってからもけっこう思い出す。周りの大人が子どもよりも熱心にそういうことにのめり込んでいるのを見た時かもしれない。結局は寝る、食う、採るみたいのは人間からは切っても切り離せない欲求なのかもしれなくて、ああいうことを無限にやっていたいと思う自分が何処かに今もいるせいだと思う。

 

まぼろしのきつねうどん

休日のある日用事が済んだわたしは家へ帰ってから冷蔵庫にあるうどんを食べようと考えていた。アルミの鍋に入っている、付属の調味料などとともに煮ればすぐ食べられるアレである。この間久しぶりにそれの天ぷらうどんを食べたんだけど美味しかったのでまた一応買っておいたのだ。色々用事を済ませてついでにチューハイも買ってから家へ帰ってうどんを食べた。冷蔵庫に入ってたのはきつねうどんだった。きつねうどんに卵を入れるのはたんぱく質がかぶる感じがしたので入れなかった。入れたのはネギのみ。煮ている間に洗濯物を畳み、煮えたのを食べている間に友達が来た。うどんを見て「いいなあ」って言ったんだけどお腹が空いていたので少しもあげたくなかった。しばらく食べていくうちに腹が満たされて来たので、未だ隣で物欲しそうにしている友達に「残りのうどん食べていいよ」って言ってあげた。わたしは洗い物を済ませようとして立ち上がった。

その後同居人がうちに帰って来た。同居人は帰ってくるなり叫んだ。「ああああ〜!!どうして?!」何ごとかと思ってびっくらこいたわたしは、台所のすき間から居間の様子を見てみた。今までにあまり聞いたことのない叫び声に対して、一瞬でいろんな「よそく」が頭の中に浮かび上がった。多分友達は何かを間違えてしまったのだ。それは大切なもの、例えば書類とか、眼鏡とか、鍵みたいな一つしかないものを壊されてしまった時にあげる、つまりは取り返しが効かないというときの声だって思っていたら「うどん」に対して言っていたみたいだった。「どーしてうどん、たべちゃったの?!

その後話していてわかったけどわたしの食べていたうどんは私の買ったうどんではなく、同居人がいつか食べようと思って買っておいたものだったみたいだ。しかし私が一度天ぷらうどんを買って食べたのは事実で、買おうと思った時に隣に置いてあったきつねうどんと迷ったという記憶、それからおいしかったので「また食べよう」と思ったこと→→→家の冷蔵庫にきつねうどんある、という二つの事実の間の矢印がいつの間にか省略されていて「わたしがきつねうどんを買った」ということにわたしは何の違和感もなく納得していたらしい。

出先から家にもどるまでの間、わたしの頭の中にあったうどんはわたしの買ったものでも、わたしのものでもなかった。そのことにわたしは本当にびっくりしてしまって、同居人の驚きとか、そのうどんを今何故か友人が食べていることとか、友人に分け与えて「やった」みたいな満足感もなにもかも全てが虚構だったのかと思うと、呆れる同居人の前で笑いが止まらなくなってしまったのだった。