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つぶやき、料理、日記など

服を着た猿

ファッションについて

 

ファッションに対して「面倒くさい」という考えをずっと持っていたから、それを意識するようになったのは必要に迫られてからだったと思う。ファッションが面倒だなあって思うのはそれが一つだけでは決まらないってとこにある。靴だけ買っても上がダサければなにも変わらない。上を買っても下が古いまんまだとだめ。ファッションが決まってても髪の毛がダサければだめ。雑誌に載っているひともしくは街を歩いてるようなまともに見える人になるまでの「トータルコーディネート」という道のりがあまりに遠すぎて、それを考えただけでおしゃれ初心者というのは「超〜〜めんどくせえ〜〜」ってなってしまうのである。ある意味短絡的だともいえる。けど全部揃えてくださいって店員に頼めるほどの度胸もない。あーだこーだ考えたあげく「ま、いっか」ってなって結局せっかくある10000円でゲームソフトを買ってしまったりするのである。

恥ずかしながら自分にその必要性がうまれたのは大学に入った頃だった気がする。大学に入ると制服というものを着なくなるので、毎日自分で買ったものを着なくてはならない。あの頃のことを思い出すといまでも胸のあたりが苦しくなってくる。どう考えてもサイズの合わないジャケットを着ているのに、店の人から「ジャケットでシックに決められてるようですし(この香水いかがですか?)」と言われてそれがお世辞なのか、本意なのかすら分からなかった自分は滅茶苦茶に世間から舐められる存在だったんだと思う。私立の高校受験の時にものすごい分厚いパーカーを着ていった。箪笥に埋まってたやつである。わたしが席に座って参考書を見ていたとき話しかけてきた幼馴染の子を久しぶりに見るとハイヒールとタイトスカートに化粧ばっちりという出で立ちだったから私は私自身に対してけっこう恥ずかしくなってしまった。海と間違えて銭湯にきてしまったかのような・・その事をあの時着ぶくれて汗ばんでいた記憶と共に思い出すのである。

 

二度目のファッション改革は彼氏が出来たときだった。あの時、「新しく買った服を彼氏の前で着るということ」すらも何故か物凄く恥ずかしくて、だから新しいジャケットを着られなくてずっとぬいだままで脇に抱えて歩いていたから別れ際に「どうしてそれ、着ないの?」と意地悪でもなんでもなく素で聞かれて「あ、、あ、う、」みたいな感じになってしまった。いま考えても本当に意味がわからない。それでも会うたびに私たちはやりまくっていた。

 

その後社会人になってからはだんだんとわたしにもおしゃれの網の目が見えるようになって来た。1たす1は2、2ひく1は1、そういう単純なルールみたいなものである。社会人になってからわたしは目覚めたのである。目覚めたわたしは5〜7センチくらいのヒールがついたブーツを履いて毎朝通勤していた。スカートも着こなすようになった。コートには丈があって自分にどういうのが似合うのかという視点をやっと持つようになった。鞄をたくさん買った。ひとつ軌道に乗り始めると爪の先にまで神経が行き渡るようになってきたので、空いた時間にマニキュアを塗ったりもしていた。わたしは「男の目」というのを意識するようになり、だから髪の毛のヘアゴムで可愛く見えるように髪を結ったりとかもした。褒めてもらえると嬉しかった。

 

カジュアルに対する憧れのようなもの

 

その後またどうでも良くなった時期とか色々とあるんだけど、それ以外にわたしの中で自分のファッションうんぬんっていうよりも単に可愛いものを見たい、という欲求があって、その目線で他人や人形の服を見たりする時期があった。いまでも不思議なのはその目線と自分のファッションへの目線がどうにも交わらないっていうところで、だから自分自身はボロボロのスエットを着ながらそういうものを眺め続けたりしてしまうことが結構ある。その頃何故かわからないけど購読していたのが「ELLE GIRL」という外国のティーン向けみたいなファッション雑誌で、本当によくわからないんだけど近所の書店には売ってないためわざわざコンビニ受け取りで買ったりまでしていた。なぜ?一応いっておくがそれを自分に生かすとかじゃない。別に目の保養とか言うつもりもない。おしゃれに気を使いたいとかでもない。雑貨好きという精神の延長にそれがあるような気がする。そしてそういうことしていると困ったことに自分のことは何が似合うのかよく分からないのに他人のことだと「もっとこうすればいいのに」とかが「スッ」とうかんできてしまうのである。

そこに載ってるファッションはカジュアルなテイストでそれをお人形みたいな外国の子がそれぞれの個性で着こなしているのが可愛いと思っていた。あと海外セレブのゴシップもけっこう載っていたけどあまりに関係無さすぎておとぎ話のようで面白かった。

その時から十年くらいは経った。今はもうその雑誌を読むこともないし、漠然と着たいものを選んで生活していたのだけど、この間スポーツ店に行った時ジャージみたいなウインドブレーカーが三割引で売っていたのを見つけた。そこにはスポーツ衣料やユニフォームだけでなく普段着れそうな白いプリントなしTシャツも見つけた。普通の服屋だと店でみるときはかわいいのに自分が着ると形が結局ダサくみえるのだったりするんだけど、なんていうか形が考慮されているように見えた。ここにはこんなに自分の好きなものが、掘り出し物同然の値段で埋まっているのか・・・そう思うとワックワクしてしまっている自分がそこにいた。ウインドブレーカー他人が着てるのを見るといつも「いいな」って思っていたけど、どう着こなすのかよく分からなかったのでン十年くらい買っていなかった。しかしどうということはない。単に羽織ればいいのである。

 

で、そのスポーツ店でけっこう充実感をえてる時に私はやっと昔購読していた「エルガール」の存在を思い出したのだった。あっそうか・・・!やっぱり自分は見るのもだけど、着るのもカジュアルが好きなんだ・・!って気がついたのだった。自分はカジュアルが好きだし、それを着ることに別にためらう必要なんてないのだ。安い、プリントがない、目立たない、そういうのが好きなのだ。コンサバとか、大人おしゃれとか、当時流行ってたエビちゃんみたいなモテファッションもあるけど、そんなんでなく、それは突き詰めるとパーカー、ジャージ、ジーンズ、青味がかった服、あるいは黄色、絶対に白黒、そういうテイストである。
(自分の中のカジュアル感2017年)

普段ボーダーばかり買ってしまうけれどそれがおちつくから着てるのだ。それはカジュアルだからなんだ。スニーカーも(以下同文)そう考えると今まで自分のそういうせこいあるいはみみっちく思えていた癖みたいのも「カジュアル」でもって内包できた感じがして気持ちが軽くなってきたのだった。あとはカジュアルだとスタイルが良くなくてもまあ大抵似合うっていうのもあるかもしれない。とにかく私は自分のファッションの落とし所を遠回りしてやっとそういうふうに見つけたのだった。

死ね

鉄腕DASHに夢中になる

ジビエ

日曜日にやってる鉄腕DASHがけっこう面白くて毎週のように見ている。番組の内容はほぼほぼDIYで、無人島で暮らしをするための道具作りだとか食材を集めて料理をしたり、栽培みたいなことをよくやっている。今日はカミツキガメを捌いてイタリアンとして調理するっていうテーマでやっていたんだけどこれがおもしろくて、かなりのめり込んで見ている自分に気が付いて「はっ」としてしまった。いま周りの人はそれ程騒いでいないのに自分だけがカミツキガメに興奮して喋くりまくっていた。いままで野球の観戦やドラマ、アイドルの歌番組などにきゃいきゃいなってしまってるミーハーおばさんを冷ややかな目でいたのに、いま自分は、カミツキガメとそれに相対した人間の「面白み」に対して素直に笑い驚き、一人で突っ込みを入れていた。三十代後半、ほぼ独り身の自分がテレビに真面目にのめり込んでいることを自覚したとき、なんだかちょっとだけさびしくなったのだった。

 

 

カニ釣りの思い出 

鉄腕DASHを観ていると自分が子供の時に虫取りをしたり秘密基地みたいなものを作ったりしていたことを思い出してしまう。昔日常的によくやったのは空き地に虫取り網を持って行きトンボやバッタを捕まえることだけど、両親、というか母親がけっこうこういうのを推奨してくれていたのでカニを採りに行ったり潮干狩りに行ったりとか、いろいろな所へ連れて行ってくれた思い出がある。

カニ取りは岩の間に隠れている小さなカニを珍味をくくりつけた針金で釣る、っていうやつで、とった後食べるわけでもなく単にキャッチアンドリリースするっていう遊びである。海の岩場にはでかいフナムシがたくさんいてそれはそれはきもちがわるかったのに、私と姉はそれでも夢中になってカニを取り続けたのである。

カニを採るコツは、捕獲しているうちに掴めてくる。針金の先に付いた餌を、岩の間のカニが隠れていそうな場所で行ったり来たりさせてみる。その匂いにつられたカニが姿を見せるので、カニが岩場から離れるのをじっと待つ。ここで気をつけなければならないのが、すぐにエサに食いつかせるのではだめということである。このタイミングで食い付いたとしてもカニはその重みと岩場へのしがみ付きでなかなか釣り上げることは出来ない。釣り上げるためにはまずカニが岩場から十分に離れること、そうしてエサにがっちり食いついたっていうタイミングでハリガネを水上へあげることだった。いったんそのこつが掴めると、カニは面白いくらいに連れた。二匹同時にかかったりとかもした。けどそんな風に最善を尽くしたとしても逃げられることもけっこうあった。外遊びっていうのはこういうのが面白いんである。タイミングがなかなか難しいこと、またカニがどこに潜んでいるか分からないこと、そうこうしているうちにフナムシが足元に近づいてくる恐れもある、ていうスリルでけっこう夢中になってカニを釣っていた。

 

カニ釣りのことを大人になってからもけっこう思い出す。周りの大人が子どもよりも熱心にそういうことにのめり込んでいるのを見た時かもしれない。結局は寝る、食う、採るみたいのは人間からは切っても切り離せない欲求なのかもしれなくて、ああいうことを無限にやっていたいと思う自分が何処かに今もいるせいだと思う。

 

まぼろしのきつねうどん

休日のある日用事が済んだわたしは家へ帰ってから冷蔵庫にあるうどんを食べようと考えていた。アルミの鍋に入っている、付属の調味料などとともに煮ればすぐ食べられるアレである。この間久しぶりにそれの天ぷらうどんを食べたんだけど美味しかったのでまた一応買っておいたのだ。色々用事を済ませてついでにチューハイも買ってから家へ帰ってうどんを食べた。冷蔵庫に入ってたのはきつねうどんだった。きつねうどんに卵を入れるのはたんぱく質がかぶる感じがしたので入れなかった。入れたのはネギのみ。煮ている間に洗濯物を畳み、煮えたのを食べている間に友達が来た。うどんを見て「いいなあ」って言ったんだけどお腹が空いていたので少しもあげたくなかった。しばらく食べていくうちに腹が満たされて来たので、未だ隣で物欲しそうにしている友達に「残りのうどん食べていいよ」って言ってあげた。わたしは洗い物を済ませようとして立ち上がった。

その後同居人がうちに帰って来た。同居人は帰ってくるなり叫んだ。「ああああ〜!!どうして?!」何ごとかと思ってびっくらこいたわたしは、台所のすき間から居間の様子を見てみた。今までにあまり聞いたことのない叫び声に対して、一瞬でいろんな「よそく」が頭の中に浮かび上がった。多分友達は何かを間違えてしまったのだ。それは大切なもの、例えば書類とか、眼鏡とか、鍵みたいな一つしかないものを壊されてしまった時にあげる、つまりは取り返しが効かないというときの声だって思っていたら「うどん」に対して言っていたみたいだった。「どーしてうどん、たべちゃったの?!

その後話していてわかったけどわたしの食べていたうどんは私の買ったうどんではなく、同居人がいつか食べようと思って買っておいたものだったみたいだ。しかし私が一度天ぷらうどんを買って食べたのは事実で、買おうと思った時に隣に置いてあったきつねうどんと迷ったという記憶、それからおいしかったので「また食べよう」と思ったこと→→→家の冷蔵庫にきつねうどんある、という二つの事実の間の矢印がいつの間にか省略されていて「わたしがきつねうどんを買った」ということにわたしは何の違和感もなく納得していたらしい。

出先から家にもどるまでの間、わたしの頭の中にあったうどんはわたしの買ったものでも、わたしのものでもなかった。そのことにわたしは本当にびっくりしてしまって、同居人の驚きとか、そのうどんを今何故か友人が食べていることとか、友人に分け与えて「やった」みたいな満足感もなにもかも全てが虚構だったのかと思うと、呆れる同居人の前で笑いが止まらなくなってしまったのだった。

はてな題詠短歌の目五月

短歌の目に今回も参加しました。

よろしくお願いします。

 

短歌の目5月のお題です - はてな題詠「短歌の目」

 

 

1. 青葉

青葉萌え沈黙が増え答えさえ要らないようにいずれなりゆく


2. くつ(靴、屈、窟など他の読みかたも可)

唐突に置いた最後のピースだね靴箱の靴の抜け殻感は


3. カーネーション

カーネーションの葉、くき、花はザリガニの胴体、足と似てる気がする


4. 衣

見てよこれ、衣ばかりと笑う人に返す言葉もない僕ですが


5. 夕なぎ

夕なぎに現れたのは蜘蛛ととお化けとロクなもんにもならない思想

 

 

テーマ詠「運動会」

世の中は、成れなかったで溢れてると運動会で漏らした再従兄弟

 

玉入れで数数えてるせんせいは何が楽しくそんなに笑うの

 

 

日記

日記を読み返すごとにばかばかしいなと思ってしまい、今ではどんな気分でそれを書いていたのかもよく分からない。なんていうか普通のブログを書いてないかもしれない。けど何を書けばいいのか分からない。

常日頃仕事のことばっかり考えてしまってそれが間違えていることのような気がしている。自分には生活、趣味、他の場所もあるはずなので何話してても結局仕事の思考回路に陥っていくのは間違えていることのような気がする。

 

 

〜今日思ったこと

人の上に立つために「怖い」っていうことが重要なのかなと、恐怖政治を行おうとする元恋人を見ていて思う。

包容力って何?それは「反発する」でないことはもちろんのこともしかすると「強く受け止める」ではなく「受け流す」ということなのかもしれない。そう考えるともはや早く歳をとりたいと願うしかない。

・小学校入りたての頃に友達を作るためには「友達になろう」って声をかけないとならないと思いこんでいたっていう、そういう感覚を思い出す。友達になるためにはあと一歩のラインを踏み込まなければならないんだった。勝手に心配したり、生活に干渉してみたり、やけに感動してみたり。そういうやりとりを自然にできる友達としていて思い出した。そーかだからこの子はすぐに友達ができるのか。自分にはそういうやりとりが上手くできない。親しい相手にさえも鎧みたいなものがあるんだなあと実感した。化石だ。化石。

・昨日と同様の攻め方で今日も行くのは「効果があるからだ」「効果がないからだ」ではなく「自分がやりたいから」だったとしたら単なる馬鹿だ。わたしはばかです。いつでも自分は他人から馬鹿に見られてるんだなと思わなくては

梅雨っていうのを経験したことがないからそれに対して「本当にあるの?」くらいの認識くらいしかないんだと思う。わたしは雪に焦がれているかもしれない架空の人達のように、そういうものが性格形成とかにも影響を及ぼすのかもしれないなあ、って感じで梅雨を思ったりしてしまうことがある。異国の見えない暗号みたい。梅雨のある土地に住んでる人はきっと物事を画一化したいくらいに何事に対してもきびしくて、はみ出てる人を許さなかったりするんだろうなと考えたりもしたりして、けど、そんなのは自分からした社会に対する恐れそのまんまの印象でしかなく結局梅雨に対するイメージなんてものろくに持ち合わせていないのだった。よく分からないものが分かった途端に「こんなもんか」となってしまう落差。あの頃はいろんなものに対して幻想があって、だから幻想それ自体が梅雨に対する印象だったのかもしれなくて。

梅雨っていうのは、だいたい六月くらいの季節にだらだらと雨が降ったり止んだりしてジメジメするなあっていうものなんだろうなと想像して居る。同じようなもので三寒四温なんかは毎年、「いま、三寒四温に居る!」みたく思って共感を求め周りの人達に言いふらしたくなってしまうのでもしかするとそれくらい劇的なものなのかもしれない。梅雨入りしました、梅雨が来たぞ〜と言うことで、ただ気持ちが軽くなるのだというようなやり方で、つまりは分かち合うということなのだと思う。梅雨の存在に気づいたちょっとずつの人たちはあるときから声をあげるようになって、地球がうまれて◯ン年目くらい暦ができてルーティンが出来上がってからある時期になるといつも「なんか調子が悪い」と思うようになって、そう考えているのは自分一人じゃなかったんだっていうことがわかって、それに名前を付けようということになり、共有することで、皆で少しずつ梅雨っていうものの煩わしさ、苦しみを分かち合うことができるようになったのだった。梅雨っていうものの今も昔もその存在は漠然としていて、人たちは体感的に梅雨っていうものがあるのかどうかよくわかってなかったりする。こういう在り方は途切れなく存在している私たちの在り方と比較してみても実は正しいのだなんてふうにも思うから、だからそういうことに「なんとなく」みたいな「かも」「たぶん」なんてふうに付けたくなってしまうことをも恐れないでいて下さいと考えてみたりする。公式に発表されるのを待たれるようになってしまった梅雨、ただ煩わしいとだけ言われるようになってゆく梅雨、そういうものを見ているときに切ないとたまに思う。いや、思ってない。「思った方がいいのかな」くらいに今は毎日が忙しいのだった。

好きな人とそうでもない人との違いについて考える。好きな人っていうのはうしろ姿を見つけただけで駆け寄りたくなってしまうものだったような気がする。そこにしか見えない景色に近寄りたいと思わせるのが何なのか自分でもよくわかっていない。好きな人が自分を好きでないということは起こり得ることで、それ以前に自分よりもかっこ良い人、可愛い人は世の中に数限りなくいて、そういう人を見るたびに親しみ、反発、それから「いいなあ」っていう気持ちがやみくもに湧き上がってくる自分も少なからずいるっていうことを否定出来ないのだった。わたしはまだ若い。こういう世の中を見上げた時に闇雲に(ほとんど関係ないくせに)いいなあって思う気持ちは突き詰めて問答してゆけばもしかすると嫉妬なのかもしれなくて、そこに埋まってるものが他人のもので人ごとだった時に感じていたものだとかを思い起こすとウワッてなってしまう。自分の存在を超えてあるものに相対したときの人間の振る舞いってのはまるでその人自身なんだろうか。けどそれに対する気持ちは悪にも善にもなり得るだろうし、自分にはないんだとは言えないような気がしていて、だからそれに向き合わないうちから茶化したり、さっさと転嫁してみたりするのはちゃんと生きていないことのような気がする。だからわたしは誰にも自分の気持ちを言いたくない。

結局まとまらない。好きっていうのは思わず駆け寄りたくなってしまう気持ちだったと思った。よく知っている人が夢に出てきたときに目が覚めてもしばらく懐かしいと思っているときの気持ちってなんていうんだろう。あのときは双方向性みたいなものがちゃんとあって互いが互いを見ていたし、私はいつもちゃんと声が返ってくるのを待っていたのだった。そういうこと全て、懐かしくてずっと浸っていたくなってしまう。まなざし、声、雰囲気みたいなものがわたしに続いてたそのままで誰か他の人に注がれているということにけっこうショックを受けてしまいそうだ。命って限りなく欲深いと思う。

 

椎名林檎の歌で「将来僧になって結婚してほしい」っていう歌詞があるけどあれはよくわかる。僧になんてなって欲しくないし好きになる人がそんな無欲で世俗に興味のない人であるわけが無いんだけど、突き詰めればいつか欲しいものはそういう種類の愛情なんだと思う。そういうことに対してなかなか説明がつかなくって、だからポエムにしてみようかと思ったのに、糞詰まりみたいになってあんまりうまくいかなかった。

 

 

プリペイド式なんて存在しない

最近、「せっけん」がけっこう好きだっていうことに気がついた。おもに固形石鹸のことである。きっかけは多分洗顔のための炭石鹸を買ったことにあると思う。

固形石鹸はたいてい、紙箱に入っていてその中にビニールで包まれた固形石鹸がしっぽりと収まっていたりする。それを開ける時、けっこう興奮している自分がいることにあるときわたしは気がついたのである。これは友人の手土産を開ける瞬間、それとも子どものころ自分のために用意された包みを初めて開ける瞬間な感じにも似ている。石鹸はつるんと出てくる。勢いあまってわたしの手からこぼれ落ちたりすることもある。「ガコ〜ン!!」せっけんは思いのほか硬い。わたしはせっけんってあるべき場所に収めなきゃならないものなんだなあって思わされるのだった。

 

この間三百円ショップに行った時に石鹸が沢山売られていて嬉しかったっていうことがあった。思わず「こ、こんなに石鹸がある!」とつぶやきそうになってしまった私は、けどひとつも選べなかった。自分にはこういうことがけっこうある。1たすいちたすいちが=3だったりすると結局全部1にしか見えなくて、その中にでも2か100とかがあれば速攻で買ってしまうところがある。ようは選びたいのである。

 

ところで固形石鹸のどこがいいのかというとそのフォルムだと思う。なんていうか丸かったり透明だったりしてもいいんだけどできるだけマットでしかも「しかくっっ」っていう形をしてくれてるとありがたいって思う。多分これにはチューブ状、ポンプ状のせっけんに慣れてしまったが故の物珍しさもあるのかもしれなくて、でも体を洗うたびに「しかくっっ」っていう石鹸をゴシゴシと、洗う布に擦り付けているとなんだかちゃんと神様に顔向けできるただしい行いをやってるような気にもなってくる。「かたちのあるもの」は私たちのさまよえる魂を少なからず救ってくれている気がする。少しずつ減っていくのなんて当たり前なのである。わたしはカード払いもプリペイド式も嫌いだから使っていない。原始的に戻ろうや、皆。結局石けんに洗濯板がイチバン汚れが取れるに決まってるじゃないの。

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明日からせっけん、使ってみない?

休みの日は巣ごもり

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この間お休みだった日に白玉団子を作っていました。ひさしぶりの休み、となると外へ出たいという気も起こらず不思議と家の中で掃除やらこまごましたものをこさえたくなります。

「そうだ白玉団子を作ろう!」と思い立ってすぐに「今回は、抹茶のやつをつくってみよう!」というアイディアが閃き、そのご「それをココナツミルクにいれてみよう!」と次々とアイディアが浮かんできたので全部取り入れてみることにしました。

まずは買い出しへ。近所のダイエーへ行きます。

 

抹茶粉末は四百円、 ココナツミルクは二百円くらい。白玉粉は忘れたけど二百円弱くらい。合わせてなんと八百円もかかってしまいました。これじゃあ喫茶店でパフェを食べるよりも高くつく。こういうとき自分は「スイーツうんぬんじゃなくて、これは単なる趣味なんだ」っていうふうに解釈をすることにしています。

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白いのと抹茶、二種類作りました!

白玉粉をこねるときの生地を耳たぶくらいの硬さにまとめる、という表記があるけどわたしはいつもこれがよくわからなくて「軟骨くらいの硬さ?」って思ってしまいます。

 

 

 

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ココナツミルクの缶をあけて中身を出しました。ネットでしらべてみるとこの状態から「水でゆるくして、砂糖を入れて少し加熱」するらしい。

実際缶から出したばかりのココナツミルクの状態はおもいのほか「もたっ」としています。タピオカミルクのようなさらさら感はないし、何故か灰色がかっている。スーパーでよく買っているわたしの好きなココナツミルク飲料とも違う。これが本来のココナツミルクの姿…なの?

 

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それから次に、白玉をボール状にしてゆきます。レシピでよく見るのは火が通りやすいように真ん中をくぼませているのが多いんだけど、そうしなくても十分に茹でれば問題はないと思う。それに、丸い方がかわいい。

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茹でる。浮かんできたのをあみじゃくしですくい、氷水につけます。

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で〜きた!

 

感想としては、抹茶のほうがこんなに色濃くてもあまり抹茶の味がしなかったから、もうちょっと入れてもいいかもしれないと思いました。(たしか白玉粉60グラムに抹茶小さじ1杯半くらい入れた)白玉にココナツミルクだけだと甘さが足りないかな〜って感じでした。これにあんこを入れてあんみつ風にするともっとおいしかったかも。

 

 

そして夜は春巻きを作りました。さっきも書いたけど、休みの日は手の込んだものを作りたくなります。

春巻きは初めて作ったんだけど家にあるものでは足りなくてたけのこの水煮、春雨、ひき肉、乾燥しいたけ、春巻きの皮を買い出ししてきました。

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f:id:tmtkkiy:20170515180126j:image弱火でじっくり揚げるのがコツらしいです。もう中身は火が通ってるので皮をぱりっとさせる作業と思うとラクだ。

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「包む」のがたのしい。包みたい欲求がヒトにはあるような気がする…

 

春巻きはずっと好きでたまに冷凍食品のを買ったりお惣菜のを買ってみたりもしていたんだけど、なんとなく片栗粉の粉っぽさが気になるのが多いような気がする。だからなかなか美味しいとおもえなくて、初めて今回手作りしてみたんだけどこっちの方が美味しかった。うまくできました。

簡単!激ウマ!とろーり餡たっぷりの春巻き by ナウちゃん [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが267万品

こちらのレシピを参考にしました。給食の時に食べた春巻きっぽくて理想でした。

難しそうに思える春巻きだけど、やり方を間違えなければカラッと揚がるので失敗もなかなかしにくいメニューだと思いました。美味しいのでまた作りたい。